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意識は暗く、瞼は重く、瞳に映る空もまた、重く暗かった。
(ここ……どこ……?)
靄が渦巻いている。思考にも、景色にも。
(…………)
やけに視界が悪い。片目の上に何かが載っているらしい。それを取り払おうとして、『腕』というものが備わっていることに気づく。
片目に映すその腕は、白く、細く、傷ついていた。
ゆるゆると腕を伸ばして、片目を覆う何かを掴む。
柔らかく、湿った感触。
なんだ、と思う前に、
(……落ち葉)
と思考した。
(私は……)
視界は暗く白いままだが、頭の中にかかった靄はゆっくりと晴れていく。
「私は……」
喉の奥から、かすれた声が出て、靄の中に消えていった。
周りが視える――目が、ある。
声が出る――口も、ある。
発した声が届いた――耳も、聞こえる。
恐る恐る身体を動かしてみた――両腕が視界に入る、両足に湿った感触。
五体満足だ。
だが、何か違和感があった。
両手を地面について、半身を起こす。
はらりと髪が一房、肩口からこぼれた。
「っ!?」
紅。
有り得ぬ色彩が、そこにあった。
慌ててその紅の房を掴んで引くと、確かに頭皮を引っ張られる。
紛れなく、己自身の髪の毛であった。
「なん……で……?」
いや、そもそも。
「私……なんでこんな所で」
眠っていたのだ?
ふっと自分の身体を見て、今度こそ少女は悲鳴をあげた。
「な……なんなの、これっ!?」
元々粗末な衣服だったのだろうが、今やそれは衣服と呼ぶことなど出来ないほどに切り裂かれ、破かれていた。ただの、襤褸。
「わ、わた、し……」
露になった双丘を隠そうと伸ばした手に、べちょりと嫌な感触。手についたそれは、見たことのないような白濁した液体。
「こ……れ……」
見たことはなかった。けれど、知識としては知っている。それが、どういうものなのか。
けれど、何故。
何故、自分がこんなもので穢れているのだろう。
有り得ない。
ふと気がついたら、何処とも知れない山の中で、鴉の濡れ羽色の長い髪は血の色に染まっていて、裸同然の襤褸姿で、全身に薄汚い男の精を浴びている。
これが現実?
有り得ない。
「ゆめ……よね」
そう、悪夢。信じられないほど最低の、夢。
「夢に決まってるわよ。だって……」
さっき胸に触れたときに気づいてしまった。
気づかなければ良かったのに。
だって、信じられるはずがない。
「心臓……動いてないんだもの……」
ねちょりとした感触を無視して、娘は己のふくよかな乳房を掴む。
生きている限り止むことのない生命の証が、そこで鼓動を刻んでいるはずだった。
……はずだった。
「嘘……」
とくんとも言わない。
何時だったか、幼い頃に触れた、地面に落ちた雲雀に似ている。
もうぴくりとも動かなくなったそれから感じたのは、圧倒的な死の存在。まだ温かいのに、まだ柔らかいのに、それは二度と動かない。
死に支配された生き物だったモノの、感触。
「なんで……じゃあ、なんで私動いてるの……? なんで私生きてるの……?」
ぎゅうと強く乳房を握り締める。
豊かな乳房に、爪が食い込み、本当なら痛みを感じるはずなのに。
「なんで……痛くないの!?」
少女の絶望の叫びが、虚しく靄に飲み込まれていく。
答えるものはいない。静寂の中を、風だけが吹き抜けていった。血染めの絹のような髪が、ふわり舞い上がり、少女の身体を覆う。
その髪の色こそが、今の己が如何なるモノなのかを突きつけているようで――
「そっかぁ……」
ぱたりと、娘は地面に倒れこんだ。
「私、バケモノなんだ」
何故か、可笑しくなってきた。自然に口元が綻び、くすくす笑いが漏れてしまう。
紅に染まった髪を一房手に取り、玩ぶ。
「バケモノだから、こんな色になったんだ……」
ことんと首を横に傾けると、そこには陶製の鈴が転がっていた。
美しい彩が施された鈴。見覚えのある鈴。鳴らすたびに違う音色を響かせた鈴。愛しいあの人からの初めての贈り物。
そして……もう二度と鳴らない鈴。
(ああ……そっか……)
急速に記憶がはっきりしてくる。
鈴が割れた瞬間、自分が男達に囚われた瞬間。
助けを求めて、助けは来なくて、獣のような男達に、好き放題に蹂躙された。死に至るまでの暴力が、まるで人事のように頭に浮かんだ。
「殺されたんだ、私」
よく身体を見てみれば、粘液に塗れた脇腹に一筋の痕。もう血は流れていないけれど、試しに指を突っ込んでみると随分奥まで入れることが出来た。娘の細い指がすっぽりと入り込んでしまうほど、その傷は深い。
「どうしよう……」
穢された時も夜だった。あれからどれほどの時間が経ったのだろう。今も空には月が浮かんでいる。
朧月をぼんやりと見遣りながら娘は思う。
村には帰れない。せめて髪の色さえ変わっていなければ帰れたかもしれないけれど、今帰ってもバケモノ扱いされるに決まっている。自分だって隣人がこんな髪の色になって帰ってきたら、その人をバケモノと呼ぶに決まってるから。
村に帰れないなら、どうすればいいのだろう。
「このまま、ここで朽ちてゆくのも……いいかもね……」
バケモノがどれほど生きられるのか知らないけれど、ここで落ち葉に埋もれて、岩のように動かず、眠ってしまうのがいいかもしれない。
(バケモノって、眠れるのかしら)
御伽話に出てくる妖怪は、眠っていた気もするけど。
「あ……そうか、私、バケモノなんだ」
なら、
「人間……食べなきゃ」
そうだ。御伽噺に出てくる妖怪は、みんな人間を食おうとするのだった。
「隣の明花なんか……美味しいのかも」
隣に住んでいた五つ年下の少女の姿を思い浮かべる。あの柔らかなほっぺたを噛んだら、どんな味がするのか。
「けど、明花は食べられないなぁ……齧ったら死んじゃいそうだし……」
ふと、娘の形のいい鼻がぴくんと動いた。嗅ぎ覚えのある臭い。獣のような、汚らしい臭い。
娘は起き上がり、臭いの来る方向へと眼差しを向けた。靄に隠れた向こう側に、人影が一つ。
「ちっ、この辺りだと思ったんだが……」
意識をそっちに向けただけで、面白いくらいに遠い場所のことがわかる。
(ほんとに……バケモノなんだ、私)
人影は、娘を組み伏した郎党の一員だった。しきりに何かを探している。
「死んでても穴は穴だかんな。手でするよか気持ちいいだろ」
(……ああ、そう言えば)
男は郎党の中では下っ端のようで、娘が存命中は結局行為に及べなかったことを思い出す。
「死体とするつもりなのね……頭オカシイんじゃない?」
男の言葉に、目覚めてから初めて少女の心に怒りが生まれた。
突然バケモノになってしまったことに嘆きも悲しみもあったが、理不尽すぎて、なにを対象にすればいいのかわからなくて怒りは生まれなかった。しかし男の言葉は、娘の心を活性化させたようだ。
(あんなの食べたくないけど……いいよね、バケモノなんだから、殺したければ殺しても)
殺そう。
娘がそう決めた瞬間、鳴らないはずの鈴が、"凛"と澄んだ音をたてた。
「な、なんだ!?」
男がうろたえる。
きょろきょろと落ち着きなく辺りを見るが、人の身の男に濃い靄を見通すことは出来ない。
その間に、娘は打ち捨てられた鈴を手に取ると、いとおしげにそれを胸に抱いた。
「そう、貴方も悔しいのね。一方的なチカラで冒されたのが」
ついと表面を撫でると、鈴は嬉しそうに高い音を響かせる。
「なら、それを晴らしましょう。この胸にある憎しみと、怒りと、悲しみと、嘆きと、憤りと、悔しさと、絶望を音色にのせて」
少女が囁き、
七色の光が舞った。
「ひっ!」
そんな短い言葉が男のこの世で最後の言葉となる。
一瞬の内に宙を舞う幾百の輝きに男の肉は裂かれ、抉られ、貫かれた。
「しまったなぁ……」
真紅の髪を靡かせながら、娘は男だったモノの傍に立つ。
「もっと怖がらせてから殺さないとバケモノ失格よね」
無造作に男の服を剥ぎ取りながら呟く娘の顔は、如何なる表情も浮かんでいなかった。





極彩色の粒が、闇夜を照らす。
それは幻想的な景色だった。当事者以外にとっては。
芳しく、絢爛たる華を模した光彩達が男の行く手を阻む。男は奇声をあげながら青龍刀でそれに斬りかかるが、実体のない気の塊である輝きに刃が通じるはずもなく、むしろ男は自らの死期を早めただけだ。
「あ……また怖がらせるの忘れてた」
挽き肉になっていく男を見ながら娘はつぶやく。
娘が男達――夜盗団の根城(古い砦を使っていた)に辿り着いたのは最初の男を殺してから、ものの十分も経たない内だった。男達の放つ醜悪な臭いを追うことは、今の少女にはさして難しいことでもない。
それから先は一方的だった。
少女は、男達の圧倒的な暴力に敗れ、純潔を犯され、生命を冒された。
そして今、少女の方が圧倒的な力を以って、男達の生命を冒していく。
門番に立っていた一人は、少女の顔に気をとられている間に首を捩り切ってやった。その首をもう一人の門番に投げつけると、一瞬呆然とした後に情けなく悲鳴をあげて失禁した。あまりにも悲鳴が長いから、鬱陶しくなって光の粒を浴びせた。雨のように降り注ぐ輝きを浴びて、もうその男は骨も残っていない。
砦の中に入ってすぐ、似たような外見の男が三人がかりで襲ってきた。ひょっとしたら兄弟だったのかもしれないが、娘にとって相手の詳細などどうでもいいこと。どうせ皆殺しなのだ。一人目が振り下ろした刀を素手で叩き折ると、似たような顔なのに三者三様の反応を見せたのが面白かった。一人目は泡を食って逃げ出した。二人目はわけのわからない叫びをあげて襲ってきた。三人目は腰を抜かして失禁した。ただ、末路は同じだったことを記しておく。
「あと三人か……呆気ないなぁ」
自分が犯されたときはもっと大勢いたような気がする。二十……いや、三十人はいたのではないだろうか。もっとも、今になって思い返せばたった九人が入れ替わり立ち代りで犯していたのだとわかる。
「ふふ……あの時はいっそ死にたいって思ったわ」
それがこうして本当に死んでしまうとは思わなかったが。
意識を散らして残りの気配を探る。ちょうど目の前の部屋に、一人。伝わってくるのは恐怖と怯え。
「隠れてないで出てきなさいよ」
閉ざされた扉に向かって呼びかける。
……返事はない。
「黙っていれば隠れおおせるとでも思ってるの? 五つ数えるうちに出てきなさい」
わざと怒ったような口調で言ってみるが、やはり返事はなかった。伝わってくる恐怖と怯えが強くなるばかりだ。
「五」
娘はつまらなそうに扉を見る。
「四」
視線を扉から胸の中の鈴に移した。
「三」
割れた断面をそっと指でなぞる。
「二」
そして、
「一」
娘は鈴を小さく揺らした。
「零」
鳴らないはずの鈴が、澄んだ音を響かせる。同時に、扉に向かって幾百、ともすれば千を越える煌きが殺到した。
それは、まるで颱風。けれど、吹き荒ぶのは風など比べ物にならない破壊の力を秘めた極彩色の輝き。
それなりに厚い木で造られた扉だったが、紙のように簡単に突き破られる。
娘はつまらなそうに砕け散った扉を一瞥すると、奥に向かって歩き出した。
どうせ、扉の奥にいた男の末路は見なくてもわかっているのだ。
「バケモノってのも意外につまらないわね」
とことこと砦の中を歩きながら娘がつぶやく。
「別に殺しても楽しくないし、やっぱり食べないとダメなのかしら」
でも、あんなの食べたくないし、娘がそう漏らした瞬間だった。
娘の首筋を狙って、一筋の閃きが疾る。
それは、何十度と繰り返された、完璧に近い一種の芸術とも言える動き。人を殺すという一点において、頂点にまで登りつめたもの。
普通なら相手はなにをされたかもわからないまま首を飛ばされていたことだろう。
だが、生憎閃きが狙った首の持ち主は、今やバケモノなのだ。
人間なら認識できないはずの速さが、娘の目にははっきりと視える。遅いとまでは言わないまでも、かわせないほどでもない。
前に出しかけた一歩を下げるだけで、簡単に避けられた。目の前を銀色の閃きが舞う。
「はっ!」
下げた一歩をあらためて前に。同時に握った拳を体勢が崩れた閃きの放ち手――鋭い目つきの男――に撃った。
小さな拳に秘められた破壊力は、一撃で男の肋骨を数本叩き折る。おそらく内臓にもかなりの負傷をおったことだろう。
だが、男は止まらない。伸びきった腕を無理矢理返し、娘の肩口に刀を叩きつけた。
自らを省みない、ほとんど自傷行為の斬撃。鎖骨を圧し折り、確実な致命傷を与える。
――相手が、人間なら。
刀は薄汚れた服を切り裂いたが、白磁の肌を傷つけるには至らなかった。相当な業物であろう刀が、嫌な音をたてて折れ飛んだ。
信じられぬといった表情で、男はその場に崩れる。無傷の状態でも無理な斬撃だったのだ。肋骨が折れ、内臓を傷つけた状態で放てば、どうなるかは火を見るより明らか。
「バケモノ……め……」
濁った憎悪の目で、男は娘を睨む。
「……なによ、そのバケモノを生んだのは貴方たちじゃない」
一方的な非難に娘は形のいい眉をしかめた。が、すぐに怪訝な表情になり、
「……貴方、私を襲った中にいなかった……?」
問いただすが、痛みからか男は既に意識を失っていた。
意識の途絶えた男の顔をじっと見るが、気の質が今まで殺してきた男たちとは違う。研ぎ澄まされた刃のような感覚を受ける。
「……まあ、殺さなくてもいいか」
このまま放っておけば死ぬ気もするが、それは運の問題だ。そもそも殺す気で襲ってきたのはこの男の方からなのだから、自分が死んでも悔いはあるまい。
「あと……あれ? 気配が減ってない」
歩きながら気配を探って、大きな瞳を白黒させる。
「さっきと場所が変わってないってことは……そっか、あの人の気配を感じられなかったんだ」
つい今しがた自分を殺そうとした鋭い目つきの男を思い浮かべる。野生の獣を超える娘の感覚から隠れ、芸術的な殺人技の持ち主。
「……そっか。そんな人も殺せるようになってるんだ、今の私は」
ほんとにバケモノなんだなぁと自嘲気味の笑みが漏れた。
残り二つの気配は砦の奥まった場所から感じる。好き放題に壊してきたせいか、どうやら火の手もあがっているらしい。
「少し急ごうかな」
呟いて、娘は足を速めた。
砦の構造なんて知らないけれど、そんなことは関係ない。気配のある方向に向かって進めばいいのだ。時折ある壁に塞がれるが、娘が纏う煌きの前では壁などないも同然だった。
数枚目の壁を打ち砕いたところで、突然娘の耳に悲鳴が届く。
「え?」
なんてことはない、打ち抜いた壁の後ろ側に人がいただけだ。崩れた壁の下敷きになって二人の男が呻いている。
「あ、見つけた」
一番最初に娘を押し倒した男と、純潔を奪った男だった。
「お、お前……っ!」
流石に髪の色が変わったくらいで区別がつかなくなるはずもなく、男たちは先ほど自分たちが蹂躙した相手が襲撃者だと気づいたらしい。信じられないものを見たような顔で、固まっている。
「私ね、凄い力があるの」
言いながら片方の男の腕を掴んで捻りあげた。くるりと、腕が一回転する。
「ひっ、ひーっ!」
「あ、あにじゃーっ!」
「ほら、凄いでしょ」
くるりくるりと、男の腕を捻る。ぶつんっと、ちぎれた。
「ぎゃぁぁあっ!!」
ぽいと無造作に、取れてしまったものをほうり捨てる。
「貴方たちに犯されて、殺されて、気がついたらこうなってたの」
もう片方の手を掴む。同じようにくるり、くるり、ぶつん、ぽい。
「嬉しいと思う? こんな凄い力を手に入れたんだものね」
くるり、くるり、ぶつん、ぽい。
「あ、ああ! 凄い力だっ! あんた、英雄になれるよ!」
くるり、くるり、ぶつん、ぽい。
「そう……」
くるり、くるり、ぶつん、ぽい。
「でもね」
もはや娘が紅いのは髪だけではない。返り血で、娘の全身は真っ赤に染まっていた。
「私は、そんなものになりたくない。こんな力も欲しくない」
手も足も、頭もなくなった肉の塊の両肩に手をかけて、軽く力をかけて引き裂く。
「ただ、家族と一緒に暮らして、好きな人のところにお嫁に行ければ、それでよかった」
足元に転がる頭の上に足を置く。軽く力を込める。
ぐしゃ。
「ねえ。聞いてる? こうなったのは、誰のせい?」
「あ……ひ……あひ。あひひひひひ」
「……まあ、貴方たちのせいでもないと思うんだけどね」
「あひひひあひゃははあはははああははははは!!」
「だから、これは私がバケモノになった復讐じゃない。これはただの理由のない暴力。貴方たちが私にしたような」
"凛"と鈴が鳴く。
笑いながら、娘が泣く。
「運が悪かったと思って、諦めて」
そして、光が乱れ舞った。





「ほう、これは珍しい」
どれほどの時間が経ったのか。突然の声に、娘は項垂れていた頭をあげた。
少女の視線の先には、長い白髪と顎鬚を持った老人。風貌だけ見ればそのあたりの村にもいそうだが、腰に大刀を佩いているとあればそうそういるものではあるまい。まして、老人は少女の視線の先――空中に、足場でもあるかのようにしっかと立っているのだ。およそ並の老人では、と言うより普通の人間ですらない。
「死んではいるようだが、鬼ではないな。僵屍か」
ひらりと娘の前に降り立つ。
「そのように血塗れで、なにをしておる」
「……人を」
「ふむ?」
「人を、殺しました」
「人を殺した、か。何故?」
「バケモノだから。私は、バケモノなんです。バケモノは、人を殺すものでしょう?」
「はて、そうとも限らぬぞ。殺さぬバケモノもおる」
もちろん殺すバケモノもおるがな。そう言って老人は言葉を切った。
しばし、沈黙が続く。破ったのは、娘の方だった。
「貴方は……仙人さま、ですか」
仙人。
御伽噺に出てくる存在。子供の頃ならともかく、長じた今となってはそんなものがいるなど娘は信じていなかった。けれど、バケモノがいるなら仙人もいるのは当然だ。そして老人の風貌は御伽噺に出てくる仙人そのものだった。長い白髪と、顎鬚と。
「そんな大したものではない。儂は只の剣士じゃ」
「…………」
只の剣士が空中に浮けるものだろうか? 疑問に思ったが、質す言葉は口から出ない。代わりに、
「私を、殺すのですか?」
剣士もまた、御伽噺でバケモノを殺す役回りを持つ職である。普通の剣士では己を殺せないのは証明済みだ。だが、この奇妙な剣士ならあるいは。
「殺す? 殺すとは、生きているものに対してすることだ。おぬしは……なんじゃ?」
「……死体、です」
「左様。ならばおぬしを殺すことは何者にも出来ぬ」
道理だった。
「ただ、殺すことは出来ぬが間も無くおぬしは動けなくなるであろ」
「…………」
それでもかまわない。そう思った。
一度死んだにもかかわらずこうして動いていられるのは確かにありがたい。けれど、この姿ではもはや村には戻れない。今までの全てと決別して孤独になるのは、あまりにも辛い。
「……何故おぬしが死した後動いているのか、儂にはわからぬ。だが何か無念があったのではないか?」
無念。
理不尽な理由で、生に終止符を打たれたこと。
だが、そのことに対する復讐は為された。男たちもまた、各々の生を娘の手によって終わらせられている。
「無念は……晴らしました」
もっと生きたかった。しかしそれは今更だろう。言っても詮無いこと。
「ふむ。ならば、ここで成仏するか」
「……はい」
「……娘」
厳然としていた老人の言葉に、わずかな迷いが混じる。
「何故、泣く」
「……え?」
頬に手をやる、濡れていた。
当たり前だ。返り血で、濡れていない場所などない。
娘の困惑を見て取ったのか、老人が腰に佩いていた大刀をすらりと抜き放つと、娘の眼前で構えた。
曇り一つない剣の銀に、ただ二筋、頬に流れる涙の跡をのぞいて真紅に染まった娘自身の姿が映っている。
「無念は……ないのではなかったか」
「…………」
ないはずが、ない。
「いき……」
「ん?」
「生きたい、です。まだ死にたくありま……せん」
もう死んでいる。そんなことすら忘れて、娘は真情を吐露した。
いくら言っても仕方のないことだとわかってはいるが、もう今まで自分がいた場所には戻れないこともわかっているが、それでも娘は全てが無に帰ってしまうのは、嫌だった。
「……娘」
「……は、い」
「……気の扱い方を、教えてやろう」
「……?」
ぶっきらぼうな老人の言葉に、娘は疑問の表情を泣き顔に浮かべる。
「おぬしは、儂の弟子と年の頃が近い。薄い縁じゃが、縁は縁じゃ。捨て置くのは気分のいいものではない」
「助けて……くれるのですか……?」
「おぬしがまだ、この世界に留まりたいと言うのならな」
娘はまだ二十歳にもなっていなかった。本来生きられる時間の半分も生きていない。
今ここで頷けば、全う出来なかった生を再び歩めるかもしれないのだ。
「……私は……」
失ってしまったものはもう取り戻せないけれど、新しい何かを得られるかもしれない。身体は死んでいても、心は生きているのだから。
「死にたく、消えたくはありません……」
「左様か。ならば、行こうかの」
「は、はい。剣士さま」
娘の呼びかけに、老人は眉をしかめた。
「妙な呼び方をするではない。儂には魂魄妖忌という名がある……して、おぬしは?」
「私は……」
名前を言い掛けて、口ごもる。
自分は犯され、殺された。
今こうして動いているのは偶然と幸運の重なった結果で、自分は確かに死んだのだ。
なら、名前を名乗るのは間違っている。
娘はそっと鈴を握り締め、風に靡く血染めの髪を見遣った。
バケモノの象徴であるこの深紅の髪と、想い出の鈴が、今の己の全てだ。
なら、
「紅……紅美鈴です。妖忌さま」
かくして、一人の娘が死に、華人小娘紅美鈴が生まれた。
如何にして彼女が幼き紅い悪魔の館を守るようになったのか。
それはまた、別のお話……

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