街は異界と化していた。 異常に生きる人間なら感じるだろう、街に満ちる吐き気を催すほど濃い魔力の残滓を。 日常を生きる人間でも感じるだろう、煮詰めすぎたスープに似ている、吸い込むだけで窒息しそうな大気を。 例えるなら深海。普通の海と繋がっているはずなのに、異形の住まうそこは既に別世界。 だが、それでもなお夜を歩く者がいた。日常の中で暴力と快楽に生きてきた者たちだ。 危険を避ける術を知っているのか、それとも――危険を認識できないのか。 彼らは何時も通り夜の街に繰り出し、そこで彼らの日常は終わりを告げる。 はじめにソレを見つけたのは新都の繁華街を根城にする徒党、その一つに属する少年だった。彼のグループは幾つかある同じような集団の中ではそれなりに力のある方で、弱者を囲んでの暴力や略奪、蹂躙などは然程珍しいイベントではなかったが、彼自身は組織の中では下っ端で、おこぼれにあずかることはほとんどなかった。 そんな彼が見つけたのである。 ソレは少女だった。夜の街に不似合いな、清楚な装いと化粧っ気の無い美貌。楽しげに口ずさんでいるのは聞いたことのない旋律、白皙の裸足が妙に艶かしい。在るだけで男を誘う、そんな空気を纏った少女。 我知らず唾を飲み込んだ少年は、慌てて周りを見回した。極上の獲物である、上に献上するにしても、まず自分で楽しむにしても人数は少ないほどいい。 結果、ソレに気づいたのが己一人だと知って、少年は情欲と愉悦に口元を吊り上げた。 なんて幸運。 その勘違いを抱いたまま、少年はソレに声をかけ―― 「――っひ」 抱き寄せようとした瞬間、この世から消失した。 少年の無知を誰も責められまい。深海と化したこの街で、いまや少年たちは捕食されるのを待つだけの哀れな小魚の群れに等しい。対してソレは、深海の王であった。誰もその正体を知らぬ、数え切れぬほどの触手を備えた大海の主、海魔に例えるのが相応しいか。 少年を喰らい尽くすのも一瞬。一呼吸もせぬまま、ソレの影と重なった少年の下半身は刹那の間に飲み込まれ、悲鳴もあげられぬまま陽炎のように立ち昇った無数の触手によって残った上半身も影に押し込められた。 まるで手品。箱に入った美女が霞みの如く消え去ります、上手くいったら拍手喝采―― 「ふふ……あははっ……」 ソレが笑う。餌の味に満足したのか、捕食行為の手際のよさに満足しているのか、心底楽しげに。 餌を飲み込んだ自らの影から視線を上げると、路地裏を覗き込む男と視線が合った。 「大■夫■■? 誰■■んだ■■い■んじゃな■か?」 なにを言っているのかわからない。 いや、より正確に言うならば、男が何を言おうとソレには無関係である。食べる側と食べられる側。意思の疎通が出来たところで何の意味がある? 「ごー、ごー」 微笑って呟いた次の瞬間には、男はいなくなっていた。代わりにほんの少しの満足感。 通りは変わらない。男一人がいなくなったことに、誰も気づいてないようだった。凄い。まるでお話に出てくる大泥棒みたい。一瞬で宝物を掠め取り、誰にも気づかせない。 その考えがちょっと楽しくて、ソレは次々と通りから餌を食べていった。 足元から引き寄せて取り込む。一瞬で終わる捕食。食べる方は楽、食べられる方も楽。誰にでも優しい、なんて素敵な方法。 でも、路地裏から見える細い視界では、お腹は満足しないみたいだった。もっと欲しい、もっとたくさん食べたい。 なら、 「……あはっ……ふふ」 もっと沢山餌の見える場所へ。ソレは不確かな足取りで通りに姿を現した。 「■い、アレ■■よ」 「■■な■あ■?」 「ひょ■と■て■■? ■ってる■か?」 くすくすと歌ってゴーゴー。 何もしなくても餌は沢山寄ってくる。 どれを見てもあまり美味しくはなさそう。でもお腹は減ってるから、残さずいただきます。 思考した瞬間、触手が踊る。 その光景を、離れた場所で眺めている者がいる。 金の髪に赤い瞳、人ならざる眼差しに宿るのは感心と侮蔑。 「……く。まったく、醜いものよな、貪欲な姿というものは」 呟きですら、威厳に満ち溢れていた。 その青年の正体を誰が知ろう。彼の名はギルガメッシュ。古代メソポタミアに君臨した人類最古の英雄王である。正体を知らずとも、滲み出る黄金の覇気に触れれば、雑種たる現代の人間など平伏さずにいられないだろう。天地に我のみという在り方は、完成された王の姿だ。確たる己を持たない者など、命じられれば自らの命すら絶つに違いない。 「我の忠告を聞かぬだけでも万死に値すると言うに……我のモノを無断で壊すか。ふん、つくづく許せぬ」 深海じみた街に君臨するソレに欠片の恐れも抱かずに、ギルガメッシュはソレに向けて一歩を踏み出した。 ギルガメッシュが殺すと思ったということは、事実死ぬということだ。殺害宣言ではない、死亡予言。 世界全ては我のモノ。ならば、我が殺すと決めた時点でソレの死は確定している。 それがギルガメッシュの考えだ。所有権は全て我に有り、雑種は情けで使うことを許されているに過ぎない。 二歩、三歩、極点に吹き荒ぶ吹雪を思わせる鋭く冷たい気配がギルガメッシュから湧き上がる。 食事を楽しんでいたソレが、振り向いた。 「―――精が出るな。今夜に限っていつもの倍か」 一瞬で恐怖に引きつったソレの貌を見て、英雄王は薄く笑う。 途端、ソレは踵を返し全力で走り出した、まさしく脱兎の如く。 在り方が海魔であっても、能力はその姿どおり少女としての力しか持たないのか、ソレの逃げ足は遅い。必死であるのは伝わってくるが、ギルガメッシュから見れば児戯に等しかった。 「はっ。この期に及んで保身の為に逃走するか。雑種の娘と言えど、見苦しいに程があるぞ」 英雄王は不機嫌そうに眉を顰め、 「我が殺すと決めたのだ。疾く、その薄汚い首を差し出すのが雑種の務めというものであろう――!」 虚空から滲み出る様に現れた鍵のような形をした短剣を弄びながら、ギルガメッシュはゆっくりと歩を進める。探す必要などない、濁った魔力の軌跡は粘液のように空間にへばりついている。 路地裏の角を何度か曲がり、二人は対峙した。 壁際に追い詰められているのは、窒息しそうな街の主。海魔の如き影と共に在る少女。 壁際へ追い詰めたのは、人類史上最古の英雄王。黄金を纏う弓兵のサーヴァント。 無様に取り乱すソレをあらためて眺め、 「聖杯の出来そこないを期待していたが、まさかアレに届くほど完成するとはな。惜しいと言えば惜しいのだが、」 ギルガメッシュは呟きを漏らす。 彼はソレを見下げ果ててはいたが、同時に感心もしていたのだ。 ゲテモノの方が味は良い、この生き汚い娘であれば相応しい泥を吐き出す聖杯になるだろうと。それはギルガメッシュの予想であり期待であった。けれど蓋を開けてみれば、娘はそんなモノにとどまらず、母体として為ってしまっている。 その結果に、ギルガメッシュは素直に感心した。その一点だけはソレを讃えてやってもよいと思っているほどだ。 しかし、英雄王はそんなものは望んでいない。今の状態の先にあるものに興味がないと言えば、それは嘘になるが所詮意図していない未来など不要。世界は己のモノなのだから、己の思ったとおりに進むべきである。 故に必要なのは薄汚い泥を吐く聖杯だ。中のモノを生み出すほど突き抜けた聖杯は必要ない。 在るだけで邪魔なのだ、己で死ねぬというなら採るべき手段は一つ。 王、自らの手で死を下賜してやるしかない。娘の幸福に英雄王は口元をゆがめる。 我に手をくだしてもらえるとは、幸運だな、娘。 そう思考したと同時に、ギルガメッシュの背後で見えざる"扉"が開いた。 娘は知るまい。その"扉"こそ"王の財宝"、全ての富を我が手に収めた英雄王の持つ宝物庫に繋がる鍵剣。 視認する、否、認識する暇すら与えず、 「選別は我の手で行う。死にゆく前に、適合しすぎた己が身を呪うがいい」 神秘の武具の数々が、ソレを串刺しにした。 復讐の呪詛を孕んだ黒い呪剣が、肩に突き刺さる。 雷光を象徴する黄金の飛剣が、脇腹を抉る。 煌く覇者の剣が、肉を貫いて内腑を掻き出す。 魔剣が腰を砕き、聖剣が腕を断ち、神剣が脚を穿つ。 認識すら出来ていなかったのだ、抵抗など出来るはずも無く、ソレは採集された昆虫みたいに地面に縫い付けられた。滅多刺しである、その身を引っくり返せばグロテスクな剣山になるだろう。 「あ――――れ?」 そんな状態になってなお、ソレは口が利けるようだった。呆然とした口調で呟く。 「いた――――い」 その言葉にギルガメッシュは再度感心した。 襤褸のような腹からは腸がはみ出し、両手は皮一枚でかろうじて繋がっているだけ。腰から下は鶏肉の足のようにあっさりともげていて、半身を失った状態だと言うのに、痛みを感じることが出来るとは。普通ならば既に物言わぬ死体と化していることだろう。 しかし、そのしぶとさは感心と同時に苛立ちも呼んだ。 「まだ息があるのか。生き汚いな、娘」 王自身で死刑を執行してやったというのに。この上生き延びしてまうとは、まったくもって救い難い。 冷たい眼差しでギルガメッシュが見据える視界で、ソレは醜く動くはずのない手足を動かそうとのたうっている。 血の滴る音と、肉が擦れる音に混じって、掠れて歪んだ声が路地裏に木霊した。 「――――あ。あ――――あ、あ………!!!! ……死にたく、ない……やっと先輩が、わたしを、見て、くれた、のに……もっと、もっと、触れて、ほしかったのに―――やだ……死にたくない、死にたくない……! だって―――だっていま死んでしまったら、先輩は、姉さん、に……!」 夢うつつのままつまらぬ願いと執着を口にするソレに、ギルガメッシュは小さく舌打ち。 届かぬ倖せを求めるように突き出された肘から先のない腕が這いずり回るのも癇に障る。 「それが目障りだ。我の手を煩わせるな」 言って、断頭の剣を振り下ろした。 二つと無い名剣が喉を裂き、骨を割る。聖杯になったとは言え、ソレは吸血種でもないただの人間だ。生命活動はそこで終わる。 血に塗れた姿を一瞥して、ギルガメッシュは踵を返した。 些事に時間を取られたものだ。最早ただの死体に興味はない。 目の前にあるのは死体だ。十を超える宝具に貫かれ、首を半ば以上断たれた。サーヴァントであっても生き残れまい。まして人間なら言わずともがなであろう。 だから、ギルガメッシュが背を向けたのは当たり前の行動だ。 けれど、 「――――ぬ?」 空気の色が変わった。 その変化に気づいた時は既に遅い。青銀の剣士や、赤い騎士ならばあるいは避けられたかもしれないが、仮定の話は無意味だ。ここには黄金を纏う英雄王以外に何者もいないのだから。 振り向いた時には手遅れになっていた。 「――――貴様、よもやそこま、ガ――――!!!???」 侵す側と侵される側が逆転した暴力の光景が、そこにあった。 一瞬でソレを滅多刺しにした英雄王が、今度は一瞬でソレに引きずりこまれている。 冗談のような光景。 ありとあらゆる英雄の頂点に立つ黄金のサーヴァントが、一瞬で、抵抗も出来ずに、のたうつ影に半身を喰らわれたのだ。離脱など不可能。そこはとうに影の国と化していた。ビルに映る影から伸びる触手が、最早胸から上しかこの世に存在しない英雄王に殺到する。 気高い黄金の英雄王は、彼が蔑んでいた雑種たちと同じ運命を辿った。 そうして魂の比重にして数十万に匹敵する獲物を飲み込んだソレは、しかし満足を知らず、さらなる餌を求めて己が支配する魔海を彷徨う。 王の心に、殺してやろうなどという慈悲が無ければ、あるいは未来は変わったのかもしれないが、仮定の話が無意味なのは周知のこと。 世界は母体を中心に終焉へと疾走する。 その果てに何が生まれ、何が死に、誰が救われ、誰が救われないのか。 それを見届ける前に心ある者は、どうか、彼の王の慈悲深き心に、憐れみを。 |