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長い、長い坂の上にそのお屋敷はあった。
「うわ、でっかーい!」
時代劇で見たお侍さんの家みたい、長い壁とおっきな門。
ばーさんの家もおっきいけど、あそこはなんか豪華すぎてわたしみたいな庶民は気後れしてしまう。まあ、豪華とか言う以前に結界のせいで用のある人間でもしっかり意識しないと近寄れなかったりするんだけど。その点この家はなんて言うか……柔らかいと言うか、あったかいと言うか、入りやすい雰囲気。庭から大きく張り出した満開に咲いた桜も、そんな印象を強くしてるんだろうと思う。
「……うん、ここに住んでるのはきっといい人ね」
うちの強欲ばーさんとは違う、穏やかな人に違いない。
まあ、
『あの子はぼーっとしてるけど、いい子だからね。悪さして困らすんじゃないよ』
あの鬼のばーさんがそんな風に優しい笑顔を浮かべて語っちゃうくらいだから、それはもういい人なんだろう。後にも先にもばーさんの優しい笑顔なんて見たのはあの時だけだし。勿論ばーさんがいっつも厳しい顔をしているとか、そういうことじゃない。ばーさんが笑う時はもっとこう、「にやり」って感じのじゃあくな笑い方なのだ。あのばーさんからお母さんが生まれたとはとても信じられない、きっとわたしが生まれる前に死んじゃったお祖父ちゃんに似たんだと思う。わたしはお母さん似だから、ばーさんとはあまり似ていないことになる、よかったよかった。
「そりゃ、若い頃のばーさんはめちゃくちゃ綺麗だったけどさ」
高校の卒業アルバムに載ってた若い頃のばーさんは、いんちきみたいに綺麗だった。それがあんな強欲ばーさんになるなんて、時の流れはつくづくむじょうだ。まあ、今だってばーさんは平均以上に綺麗なんだけど。
「品の良いお婆さんって言うより、どう考えても魔法で歳を取るのを止めてる悪い魔女みたいだもんねー」
あ、いけない。
わたしは慌てて周りを見回した。
思わず口に出してしまったけど、魔法なんて言葉を使ったらばーさんの雷が落ちる。いや、たとえじゃなくて、ほんとに。
一昨日のこと、家に私宛ての電話がかかってきた。お母さんに「お祖母ちゃんからよ」なんて言われて、心底びっくり。だってばーさんはロンドンに住んでいて、お盆やお正月だって日本に戻ってこないことが何度もあった。正直、わたしはこのときすっかりばーさんの顔を忘れてたし。
なんかよくわからないけど、日本に戻っていて今は実家にいるからわたし一人で訪ねて来いというその言葉は、まったくもってきょうはくだ。今思えばあの声には呪いがかかってたんじゃないだろうか、なんかこう、声を聞いたら絶対家に誘い込まれるような。
そして昨日、言われた住所に行ってみたら嘘みたいに豪華な洋風のお屋敷。これで表札が違ったら回れ右して帰ったところだけど、残念なことに表札にはしっかり『遠坂』って書いてあったから、いやいやインターフォンを鳴らしたら、ほんとにばーさんが出てきた。こんなでかい家に住んでるんなら、孫に小遣いくらいくれてもいいのにと思ってしまったのは秘密。
そこで開口一番、
『わたしが魔法使いだって言ったら、信じる?』
なんて言われた日には、
『おばーちゃん、ぼけたの?』
と返してしまったわたしを誰が責められるだろう。
だって、魔法使いだよ、魔法使い。二十一世紀も半ば過ぎのこの時代に魔法使いなんて、誰が聞いたって信じられるわけない。確かにばーさんはおとぎ話に出てくる魔女、ヘンゼルとグレーテルとかの魔女とはイメージ違うけど、白雪姫に出てくる継母みたいな感じはあった。魔女みたいだと思ったことはある。けど、それはイメージの問題であって、実際に魔法が使えるなんて思ったことは一度も無い。
けどまあ、ぼけた発言の直後に"見えない何か"に頭を小突き回されたうえに、目の前で箒に乗って浮かばれたら信じざるをえないよね。それでもなにかトリックがあるんじゃないかと疑うわたしの前で、高そうな壺を思いっきり床に叩きつけて粉々にしたのをビデオの巻き戻しみたいに直されたんだから決定的だ。目を丸くするわたしの前で心底愉快そうににやりと笑うばーさんの顔を、わたしは一生忘れないだろう。
そこでばーさんに聞かされた話は、わたしの世界観を一からぶっこわしてくれた。
おとぎ話かファンタジーの世界だけのものだと思っていた魔法が実在する上、こんな身近にそれを使う人間がいるなんてとても信じられない。……まあ、目の前でタネのない手品をやられたわたしとしては信じるほかに道はなかった。
つらつらと魔法使い……っと、また魔法使いなんて考えちゃったけど、魔法と魔術っていうのは違うらしい。なんでも人がどんなに時間やお金をかけても出来ないことを出来るようにするのが魔法なんだって。ばーさんがやったことは一見魔法みたいだけど、人間が再現できることだから魔術なんだとか。でも、呪文を唱えて不思議なことをするんだから魔術師でも魔法使いでも同じだと思う。
それはともかく、色々と魔術師の説明を聞いて、まず不思議に思ったのはなんでわたしがそんな説明をされなきゃいけないんだってことだった。
魔術師と言うのは一子相伝で、本来なら姉がいるわたしは自分の家、遠坂家が魔術師の一族なんだということなんて知らないまま一生を送るはずだったらしい。出来れば知らないまま一生過ごしたかった、今さら言ってもどうしようもないので口にはしないでおくけど、それならわたしはそんな説明をされちゃいけないはず。
わたしがそう言うと、
『ふん、ちゃんと話は聞いてたみたいね。ま、そんなアンタだから呼んだんだけど』
なんて偉そうに前置きして、
『ちょっとね、わたしの妹から魔術を習って欲しいのよ』
そんなわけのわからないことを言った。
ばーさんに妹がいたってのも初耳だけど、魔術師が一子相伝なら、ばーさんの妹が魔術師のはずはない。
『わけわからないって顔してるわね。まあ、詳しい説明は勘弁しなさい。古い話だしね』
つぶやくように言ったばーさんの顔は、なんだか歳相応に疲れているように見えたから、わたしは言われたとおりなにも聞かなかった。あのばーさんがそんな顔をしてしまうくらいの出来事があったってことなんだ。わたしじゃ想像も出来ないことがあったんだろう。だから、ばーさんに魔術師の妹がいるってことだけを考えることにした。
『魔術を習えってのは建て前よ。ほんとはね、あの子の話し相手になって欲しいの』
なんでも、ばーさんの妹はずっとおっきなお屋敷で一人暮らしをしているらしい。「なんで?」って聞いたら、「その説明もパス。知りたいなら本人に聞いて」と返された。
お姉ちゃんは遠坂の魔術を継ぐから、ばーさんの妹の家に行かせるわけにはいかない。そこで今度中学生になるわたしに目が留まったわけだ。
『アンタは年のわりに賢いから、いい話し相手になるでしょ』
言ってけらけらばーさんは笑った。今度中学生になるレディーをつかまえて、年のわりって言葉はないんじゃなかろうか。
まあ、そんなこんなで今日、わたしこと遠坂円はばーさんの家と交差点を挟んだ、日本風の住宅街にある長い坂を上っているわけです。
「表札は……うん、合ってる」
おっきな門の脇にかけられて、これまたでっかい表札に書いてある『衛宮』の名字は、確かにばーさんから聞いたのと同じだ。
見回すけど、インターフォンらしきものはない。
「入っていいの……かな」
門は開いてるし、インターフォンはない。家の人が出てくるまで待ってろってことはないか。
それにしても、うーん。これだけ大きいと門の中に入るだけでけっこう緊張する。
「えっと、おじゃましまーす」
とりあえずそんなことを言って、わたしはそろそろと大きな門をくぐった。
「うわーっ!」
そして歓声。
花、花、花、花。
庭中を埋め尽くすんじゃないかってくらい、地面に植えられたり、鉢植えに植えられたりした花で、そこは一杯だった。
「すっごーい……」
白やピンクといった淡い色の花が多いけど、そんな花でもこれだけあれば凄いことになる。特に凄いのは、壁沿いに植えられた桜だ。満開に咲いた桜は、風が吹くたびに花びらを舞わせて、風を花色に染めていく。
「綺麗で……あったかい」
これはもう確実だ。まだ顔も見てないけど、わたしの魔術の先生になる人は、凄く綺麗で、優しくて、あったかい人に違いない。こんな家に住んでたら、そうならない方がどうかしてる。
「……っと、見惚れてる場合じゃないよね」
今のところわたしの身分は不法侵入者だ。早く先生に会って、挨拶したいし。とりあえず玄関に向かおう。
「……あ」
最後にもう一度と、くるりと庭を見渡したわたしの目に、縁側が映った。そこにある揺り椅子に深く座って、うたた寝をしている一人のおばあさん。
「…………」
うん、わたしの勘も捨てたもんじゃない。この人は、きっと優しくてあったかい人だ。おまけに、やっぱり綺麗。
とりあえず、お隣に座らせてもらおう。そして、目を覚ましたらわたしに出来る最高の笑顔で言うんだ。「おはようございます、先生」って。


〜 〜 〜 〜 〜


「……クラ」
誰かが、呼んでいる。
「……い、サクラ」
これは、誰の声だっただろう。
「……てください、サクラ」
心の深いところに刻まれている、大事な誰かの声だったはず。
「起きてください、サクラ」
そうして瞼を上げると、そこには、
「ふぅ、やっと起きましたね、サクラ。こんなところで寝ていては、風邪をひきますよ」
そんな風に言いながら穏やかに微笑む美女の姿があった。
「…………」
腰まで伸びた艶やかな髪、知性と凛々しさを秘めた綺麗な瞳、女のわたしから見て、なお美しいと思えるその姿。
誰だろうと考えるより早く、
「……らい、だー?」
唇が、彼女の名を紡いでいた。
「ええ、そうです。サクラ、まだ寝ぼけているのですか?」
……ああ、そうだ。彼女はわたしのサーヴァントで、友人。
「……うん。ごめんねライダー。ちょっとぼーっとしているみたい」
「無理もありません。こんなにいい陽気なのですから起き抜けはぼうっとするのも当たり前でしょう。先程起こしたタイガもそうでした」
言って柔らかく微笑む。
……タイガ。それは、誰だったろう。
「もっとも、タイガは一年中あんな調子ですけれど。あれでよく他人に何かを教える、なんて職が務まるものですね」
教える……タイガ……藤村、大河。
「そう、藤村先生、来てるの?」
「ええ。そろそろ食事なので庭先で眠っていたのを起こしてきたところです。今は居間でイリヤスフィールと遊んでいるのでは?」
「イリヤスフィール?」
ほんとに寝ぼけてるみたい。全然頭が動かない。
「はい。幸い食事の支度はリンとセイバーが行っています、むしろタイガとイリヤスフィールが遊んでいるのは邪魔にならなくていいでしょう」
……リン、遠坂凛。わたしの、姉さん。
姉さんはともかく、セイバーって誰だっただろう……?
「さあ、行きましょうサクラ。みんなサクラが来るのを待ってます」
くいとライダーに手を引かれて、わたしは揺り椅子から立ち上がった。
広い、この家の廊下を通って、辿り着いた居間では、ライダーの言った通り藤村先生と白い女の子がとっくみあいをしていた。
「タイガ、イリヤスフィール、埃がたちます。あまり騒がないように」
そう言いながら、台所から大きなお鍋を抱えて女の子が姿を見せる。
金の髪、緑の瞳、ライダーとはタイプが違うけど、やっぱり凄く綺麗な女の子。
「サクラ、目を覚ましたのですね。すいませんが、リンを手伝ってくれませんか? 私はタイガとイリヤスフィールをどかしますから」
鍋をひっくり返されてはたまりませんと、彼女は呆れたように言って、藤村先生と白い女の子の首根っこを引っ掴んだ。
それをぼーっと見送るわたしに、
「こら桜、なにぼーっとしてるのよ。こっち手伝ってって、セイバーが言ったでしょ」
台所から聞こえてくる、姉さんのちょっと怒ったような声。
「あ、はい。ごめんなさい、姉さん」
早足で台所に入ると、姉さんが真剣な顔でコンロの前に立っていた。
「おはよ、桜。悪いけど、今ちょっと手を離せないの。そこのお皿、持ってってもらえる?」
「はい、わかりました」
言われたとおり、積まれた皿を持って居間に戻る。そこにはさっきまでの騒がしさはなく、ライダーが一人布巾でテーブルを拭いていた。
「ああサクラ、少し待ってください。今拭き終わりますから」
わたしの方をちらりと見てそう言うと、ライダーは布巾を動かす手のスピードを速める。彼女の出自を考えれば、そんな家事なんて一度もやったことがないと思うんだけど、その慣れた手つきはすっかり主婦のものだ。
なんの変哲もない、食事前の風景。
けど、それで、わかってしまった。
……違う、わかってたのに、騙されていたかった。何もかもわかっているくせに、ぼんやりとしたフリをしてたんだ。
何十年経っても変わらない、甘えたがりのわたし。
少しでも温かい景色を見たら、そこに留まりたいと思ってしまう。弱虫で、泣き虫のわたし。
「……ああ」
こんな光景を、何度も夢に見た。
お姉さんみたいな藤村先生がいて、本当の姉である姉さんがいて、やっぱりお姉さんみたいなライダーが微笑んで、セイバーはしっかり者のくせに妹みたいで、白い少女は無邪気に笑う。
そんな、一度も実現しなかった景色を、本当に何度も見てきた。
でも、
「やっぱり……先輩は、いないんですね」
そんな都合のいい夢に、この家の本当の主人である先輩が出てきたことは一度としてなかった。
あの日、壊れきった、人間のカタチすらしていなかった背中を最後に、先輩の姿を見たことはない。夢ですら、わたしはあの人に会うことが出来ないのだ。少し残念だと思うのと同時に、その事実に安堵する。夢なんて都合のいい作り事に先輩を登場させたら、きっとわたしは夢から戻ってこれなくなるだろう。
先輩を失ったあの冬の日から、わたしがしてきたことと言えば、ただ自分のために生きてきたことだけ。妬んで、恨んで、殺して、壊して、犯して、侵して、冒して、全部自分のせいなのに、なにもかも人のせいにして、そんなわたしがしてきたことは、自分のために生き続けることだけだった。
だって、穢れたわたしが、人のために出来ることなんてないから。せいぜい誰の迷惑にもならないよう、ひっそりと生きていくしかない。
本当は死んでしまうのが一番なのかもしれないけど、弱虫で泣き虫のわたしは、自分で自分を殺せない。誰かが殺してくれようとしても、土壇場できっと抵抗してしまう。本当に、醜い、生き汚い、浅ましい。
それでも、
『奪ったからには責任を果たせ、桜』
先輩のその言葉を頼りに、わたしは生きてきた。
罪の所在も、罰の重さも、償いの仕方もわからないままに。ただ生きて、春を待ち続けていた。
そうして気付けば、わたしは舞い散る花吹雪の中に立っている。
夢と現実の間、目覚める瞬間に見る景色は、いつも花。
そのわたし一人きりの世界に、人影が一つ、あった。
「せん……ぱい……?」
そんな都合のいいことがあるわけない、そうして目を開けば、
「…………」
いつも通りの衛宮邸の庭が、そこに広がっている。わたしが植えた、贖いの花たち。それは今なお増え続けていて、わたしの罪が赦される日が遠いことを囁いている。
「あ、あの……」
ぼんやり庭を眺めていると、すぐ隣から聞いたことのない声。
そちらを向くと、
「おはようございますっ、先生!」
どこか見覚えのある女の子が、そんなことを言いながら頭を下げていた。
「…………」
……わたしは、先生なんて呼ばれることはしてないと思うんだけど。そもそもこの子は誰だろう。とりあえず、
「はい、おはようございます」
なんて、わたしは律儀に答えてから、
「それで、貴女は誰なのかしら。可愛いドロボウさん?」
姉さんみたく、ちょっと意地悪して聞いてみた。


〜 〜 〜 〜 〜


「それで、貴女は誰なのかしら。可愛いドロボウさん?」
「え!? あ、えっと、あのっ、わたし……っ!」
いや、不法侵入の身なので確かにドロボウとか言われちゃっても仕方ない気がするけど。
これから先生になる人に悪い印象を与えちゃったかも。うう、それはまずい。まずいと言うか、いやだ。
「ご、ごめんなさい、黙って入っちゃって! で、でもわたし、ドロボウじゃないです!」
とりあえず、誤解は解かなきゃ。
これでもかーってくらい深く頭を下げるわたしの耳に、小さなくすくす笑いが届く。
「……ごめんなさい。ええ、貴女がドロボウなんかじゃないってこと、わかっているわ」
ちらりと視線だけ先生の方に向けると、楽しそうに微笑んでいる先生の顔。
「で、でも、わたし黙って入っちゃって……!」
「それは、こんなお昼から居眠りしていたわたしが悪いの。年は取りたくないものね」
先生は言いながら、揺り椅子から下りて、わたしの隣に腰をおろした。
「それで、わたしを先生なんて呼んでくれる貴女はどなたなのかしら、お嬢さん?」
「は、はい! わたしは……」
不法侵入は許してもらえたみたい。ほっとしたわたしは顔をあげて自己紹介をしようとして、
「…………」
言葉を、失った。
一言で言うなら、"綺麗"。
寝顔を見たときから綺麗な、美人なおばあさんだと思った。けど、今の笑顔はもう別次元。
自慢じゃないけど、わたしは笑顔に自信があった。お母さんもお父さんも、お姉ちゃんも、「円は楽しそうに笑うね」って誉めてくれる。そう言うお母さん達の笑顔もすっごくいい笑顔だと思う。
けど、先生の笑顔にはかなわないと感じた。もちろん笑顔なんて勝ち負けを競うものじゃないけど。
綺麗……うん、綺麗なのは当たり前。なんて言うんだろう、透明な笑顔とでも言えばいいのかな。
そうやってぼーっと先生の顔に見惚れていると、
「……ええと、なにかわたしの顔についてる?」
なんて、困ったような笑顔で聞かれてしまった。
む、いけないいけない。なにかに気を取られやすいのはわたしの欠点だ。うーん、でも先生の笑顔を目にしたらぼーっとしない方が難しいと思うけど。
「あ、ご、ごめんなさい。先生の笑顔、あんまり綺麗だったから」
「……え?」
いったいなにがいけなかったのか。わたしの言葉に、今度は先生がぼーっとする番だった。
「……あ、あの、わたしなにかおかしなこと言いました……?」
いきなり綺麗なんて言ったのが悪かったのかな? でも、それくらいでぼーっとするわけないよね、まさか鏡を見たことないってわけでもないだろうし。
「……笑顔って、言ったの? わたしが、笑ってた……?」
「は、はい。すっごく素敵な笑顔でした!」
わたしが勢い込んで言うと、
「……わたし、笑って……?」
呆然と言った先生の目から、涙が溢れるのはすぐのことだった。
「せ、先生!?」
「……っ」
ぽろぽろ、ぽろぽろ、途絶えることなく流れる先生の涙。
「そう……わたし、いま、わらってたんだ……」
つぶやいて、先生は胸元で手を重ねた。そこにあるなにか大事なものを、愛しそうに、抱きしめるように。
「……んぱい。わたし、笑えるように……なりました。貴方の前じゃなくても、笑えて……ます」
潤んだ先生の視線の先にあるのは、満開に咲いた先生と同じ名前の花。
先生のその視線に込められた意味を、わたしは知らない。それはきっと、先生にとってとても大事な、大事な想いが込められているんだと思う。
(……知りたい)
その視線の意味。このきっと優しい人に、大切な想いを向けられる誰かのこと。先生のこと。
知りたい。こういうのも一目ぼれって言うのかな。ほとんどしゃべってもいないのに、わたしは先生のことがすっごく好きになってた。
この、大好きな先生のことを、知りたい。
「……ごめんなさいね、取り乱してしまって」
涙をぬぐいながら、先生はまた優しく微笑んでくれる。
知りたいことは山のよう。あれも聞きたい、これも聞きたい。でもまずは、わたしのことを知ってもらわなきゃ。わたしのことを知ってもらって、わたしは先生のことを教えてもらうんだ。
さあ、まずは自己紹介からはじめよう。
「はじめまして先生、わたし遠坂円っていいます――!」

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