熱い。
 火に炙られている、どころの話ではない。
 血が、肉が、骨すらも、それ自体がぐつぐつと煮え滾っているよう。
 いっそ燃えてしまえば、何もかも灰になってしまえば楽だろうけれど、そんなことは許されない。
 黒い熱は身体を苛み続ける。
 ぐつぐつ、ぐらぐらと身体が音をたてて沸騰する。
 ありえない。
 人間の身体がそんな風になるはずがない。
 すでに否定する頭すら虚ろ。
 悲鳴をあげる口はとうに無い。全身はもうすっかり溶かされて、醜い肉団子になっている。
 何もかもさかしま。耳も目も、全て身体の中。脳髄も心臓も、全て身体の外。
 ありえない。
 身体が煮え滾る音が直接響く。泡立つ肉が目の前に広がる。
 それでも死ねない。脳髄や心臓は外側にあって冷やされているから。脳髄が溶ければもう何も感じないだろうに。心臓が溶ければ死ねるだろうに。
 けれど、死ねない。
 それなのに、


『死ね』


 その願いだけは、身を蝕み続けた。
 ざわめきは全て糾弾。全て弾劾。罪を求め、罰を願い、罪を押しつけ、罰を望む。
 お前は悪だと、あらゆる音が断言する。風の流れも、虫の囁きも、意味するのは責めだけ。

『なんて醜い』

『正視できない』

『寄るな、近寄るな』

『死んでしまえ』

 ざわめき、囁き、怒鳴りつける。
 ありとあらゆる言語が、唯一つの意味を突きつけ続ける。
 すなわち、


『死ね』


 ソレは、混じり気の無い純粋な願い。一欠けらの躊躇も、容赦も無い、魂の底から願われた希望。

『俺のアイツは死んだのに』

『私のあの子は殺されたのに』

 声は問う、何故お前は生きている?
 けして答えられぬことを問い続け、答えを待たずに結末を断ずる、死ねと。
 そんなものに耐えられるはずが無かった。その黒い呪いに比べれば、肉体を苛む苦痛ですら生ぬるい。心が先に砕けてしまう。身を蝕む熱、心を冒す呪い、逃げ場は無い。死ぬことすら許されなかった。
 それなのに、


『死ね』


 声はひたすらに告げる。
 心が砕けてる。それは既に死と同義だ。確かに死んではいないだろう、だがこの醜い肉団子を生きていると言えるのか。


『死ね』


 問うまでもない。死んでいないのなら死ぬべきだ。


『死ね』


 だが、そう願う声は、絶対的な矛盾を孕んでいた。
 死を願われているのは、唯一の絶対悪。それが存在しているだけで他の全ての善性が証明される、『この世、全ての悪』を体現するモノ。それが在る以上他の人間が何を行おうと、『清く正しく生きている』という免罪符を得られる。
 だから、


『死ね』


 そう願われていながら、ソレは絶対に死ねない存在なのだ。
 魂の底から死を願われているのに、同時に在り続けることを願われる。
 生きながら殺され続けることだけが、ソレの存在理由。
 純粋願望と絶対矛盾の、歪な私生児。
 ソレと同位の呪いを受けているのだから、けして死ねない。身を冒す泥、血管から湧き出る羽虫、脳を焦がす熱。地獄の責め苦の方がまだ楽であろうという苦痛を受けて、なお死ねない。
 壊れた心に呪いが降り積もる。純粋さならば処女雪でも、乞われる中身は闇より暗い。
 壊れてしまった心が狂乱に変貌する刹那の直前、形もとどめていないはずの掌を、温かな何かがそっと包んだ。既に感じるなんて機能は残っていないのに、ソレは確かにぬくもりだった。
 瞬間、世界が変わる。
 黒い泥、赤い闇、黒い憎悪、赤い呪詛、全てが幻のように霧散する。周りには何も残らない、唯一つ、確かな掌の感触を除いて。
 ゆっくりと、迷い子の手を引くように、ぬくもりが柔らかく導いてくれる。上へ、上へと。
 その緩やかな上昇の中で、
「……兄さん」
 己を呼ぶ声を知覚し、彼は覚醒した。







 ぼやけた視界を支配するのは見慣れた少女の顔。心配げに眉を顰めたその少女は、
「……さく、ら」
 声が出たのが奇跡のよう。まるで何年も砂漠に放置されたミイラのような掠れた声。たった三つの言葉を紡ぐだけで喉は全ての力を失ってしまったようだった。
「かはっ、ごっ」
 意識の外で紡ごうとした続きの言葉は、咳で遮られた。
「無理しないでください、兄さん。凄い汗ですから、水分が足りてないんだと思います」
 言いながら、少女がコップを差し出す。
 薄い黒色という不思議な色彩の髪が、はらりと腕にかかるが、少年は気にせずコップを奪うように取ると、一気に喉に流し込んだ。
「……っは。ふ、は、はぁ……」
 夜着の胸元が濡れているのも構わず、潤いを取り戻した喉で空気を取り込む。
「……くそ、またあの夢か」
 言葉になるかならないか程度の小さな呟き。果たして側にいる少女にすら聞こえたかどうか。
 そうして、少年はようやく傍らに控える少女へと視線を向けた。
 側頭部で髪をゆるやかに留めるリボンの色と同じ名前の少女、自分の妹。
「……桜」
「はい。おはようございます、兄さん」
 彼――間桐慎二が小さく名を呼ぶと、妹――間桐桜は、控え目に微笑んで朝の挨拶を告げた。
 ごく普通の光景、いや、悪夢に魘されていた慎二が目覚めてからの対応を見るかぎり、献身的と言ってもいいくらいだ。それなのに、
「ちっ、何をグズグズしてたんだよ、オマエ。もう少し早く来ればこんな汗だくにならずに済んだのにさ」
 つまらなそうに呟いて、慎二は侮蔑の眼差しを妹に向ける。
 理不尽な言葉。とてもマトモではない。
 だが、
「ご、ごめんなさい……」
 桜の反応はより異常だった。傲慢とも言える慎二の言葉に対して、反論するどころか身を縮ませて謝罪の言葉を口にしたのだ。
 そんな妹の姿に、慎二は冷ややかな眼差しを向ける。その瞳は確かに何かを告げたそうにしているが、交じり合わない視線では無言の言葉は通じない。慎二は大袈裟なため息を一つついてみせると、
「まあ、いいさ。オマエがグズなのは今にはじまったことじゃないしね」
 毛布を押しのけて起き上がった。
 最低の経験をリピートした夢のせいで気分はかなり悪い、全身をべったりと濡らす汗もまた不快。
 ただ、掌にわずかに残ったぬくもりに、慎二は目を細めた。
「僕はシャワーを浴びてくるからさ、とっとと朝食の支度をしておけ」
 一瞬前までの微笑みは何処へやら。メイドに命令する貴族の如き振る舞いの兄の言葉に、
「はい」
 桜は、大人しく頷いた。
 その様子に慎二は再度舌打ちをする。もっとも、その心情は一度目の舌打ちと少々異なっていたが。
 多少ふらふらしているが、寝起きにしてはまあマトモな足取りで慎二は己の部屋と廊下を隔てる豪奢な扉へとたどり着く。ドアノブに手をかけてから、わざと思い出したように振り返り、
「おい、桜」
「は、はい。なんでしょう、兄さん……」
 桜がびくびくするのも無理は無いだろう、一度と無く朝から欲望の捌け口にされていたのだから。ここ最近それが行われなかったとしても、いつ再開されるかわかったものではない。
「おはよう……食事、早くしろよ」
 出来うるかぎり投げやりに聞こえるように、慎二は朝の挨拶を口にした。

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