外の薄汚れた空気が酷く美味く感じる。 それほど、あの空間の空気は奇妙だった。 バゼット・フラガ・マクレミッツ難しい顔で立ち止まり、曇り空を仰ぐ。周囲は墓地であるが、先程まで居た空間を思えば墓地など、むしろ死者への敬意を感じられる分清浄な場所と言える。 「言峰……なにをしているのです、彼は」 もとより何を考えているのかわからないところのあった男だが、それを差し引いても礼拝堂で感じた気配は異質すぎる。 心臓を鷲掴みにされたような……いや、それ以上の悪寒。禍々しい、底無き深淵を覗いたかのような戦慄。 魂さえも凍りつかんばかりの、形容しがたい恐怖は一体何によるものなのか。 一度身体を震わせ、バゼットは軽く頭を振ると考えを切り替えて足を踏み出した。 いつまでも言峰を気にしているわけにもいかない。バゼットは聖杯戦争に参加する為に、この極東の島国へやってきたわけであり、言峰はその聖杯戦争の監視役である、いつまでも気にする必要がある人物ではない。 「夜まで時間はある、か……買い物でもしておきましょう」 オフィス街の時計を見上げ、嘆息交じりに呟く。 あまり無駄な時間を過ごしたくは無いが、生憎バゼットのサーヴァントはその特性上日中動き回るのが苦手だった。聖杯戦争の参加者としての正式な活動は夜間が主となるだろう。なんでも日傘を差せば外出可能だそうだが、そうなると実体化させざるをえない。自分とランサーの組み合わせは、あまりにも人目を引きすぎる。 「それにしても……」 ランサーの幼い容姿を思い出し、バゼットはその秀麗な眉を顰めた。 無意識の内に指は耳のピアスに触れている。 本来、バゼットはこのルーンを刻んだピアスを触媒とし、アイルランドの大英雄クー・フーリンを召喚する予定だった。そこには色々と複雑な想いがあり、結果彼は現れなかったのだからバゼットとしてはほっとしたような、余計不安になったようなさらに複雑な想いを抱くことになったりもしたのだが、バゼットの彼に対するあれやこれと言うのは、また別の――と言うよりは、本来の――話である。 術式に誤りは無く、触媒も問題無し。間違いなくクランの猛犬と謳われた男が呼ばれるはずだったのだが。 事実としてバゼットの眼前に現れたのは十に届くか届かぬか、と言った年頃のフリル満載のドレスを纏った、くすんだ銀髪に赤い瞳の少女。 ありえない……だが起こってしまったのだ、否定できるはずがない。 加えて、確かに想定外の事態ではあるが悪いことばかりでもなかった。召喚されたランサーが放つ圧倒的なまでの魔力、それはまさに英霊と呼ぶに相応しい格だ……もっとも、ランサーの真名は聞いたこともないようなものだったが。 だが、いくつかの弱点と、我侭な性格にさえ目を瞑れば彼女は最強と呼ぶに相応しい。 それだけの威厳を、あのランサーは幼い姿ながら備えていた。 (ですが、あの性格だけはどうにかならないでしょうか) 召喚したのが予定通りクー・フーリンであれば、多少性格が歪んでいようと――もっとも、彼の大英雄がそんなに捩れた性格とは思えないが――問題あるまい。彼の伝承からその能力や宝具の想像はつく。 が、今のランサーは話が別だ。 聞いたことすらない英霊――否、存在すらしない英霊ではないかと、バゼットは疑っている。 それゆえに、能力も宝具もわからない。はっきりしているのは真名と、彼女が“ある種族”に近い特性を備えていることだけだ。 能力や宝具を教えろと迫ったものの、 『何故いちいち説明しなければならないの?』 と、素気無く断られてしまった。勿論令呪を使って無理矢理言わせる、ということも出来たが、令呪を使って無理矢理言わせれば、その後の信頼関係にも皹が入るであろうことは想像に難くない。サーヴァントの能力を一時的に増幅することすら可能な令呪を、戦いが始まる前に使ってしまうのも問題である。 (レミリア・スカーレット、か……) 彼女を召喚した夜を思い出す。 予想を裏切り、現界した少女へ向かってバゼットは、 『お前……一体何者』 強い口調で問い質した。 強大な魔力は感じたし、ラインが繋がってるのもわかっていた。だが、少女は現れるはずのないモノのはずなのだ。 それにランサーはつまらなさそうにバゼットを一瞥し、 『お前こそ何者よ。人間』 そう、返した。 その眼差しに、背筋を駆け抜けた戦慄を覚えている。 少女にはあまりにも不似合いな支配者の瞳。こちらのことなど塵芥程度にしか見えていない、超越者の視線。 気圧されるのが一瞬だったのは、バゼットが幾度も修羅場を掻い潜ってきたがゆえだろう。 『……私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。お前のマスターだ、ランサー』 『主……ね。誰に向かって口を利いてるのかしら』 次の瞬間、バゼットの細い首はランサーの小さな手によって握られていた。 目視出来ないほどの動き。十前後の小娘の手とは思えぬ力。気道が潰され、骨が軋む。 早くも霞み始めた目で、バゼットはありえぬものを見止めた。 翼。 蝙蝠の如き皮膜を張った黒い翼が、少女の背で羽ばたいていた。 ランサーの可愛らしさには不自然な、異形のパーツ。 それに畏怖を覚えるが、それ以上に召喚したサーヴァントに逆らわれているという事実が、バゼットの自尊心を奮い立たせる。 自分の喉を握りつぶさんとするランサーの細い手首を両手で掴み、 『マス、ターの私が……サー……ヴァントのお前に、言っ……てるんだ……っ!!』 呪殺せんばかりの眼力を込めて、掠れた声でランサーへ宣言した。 『へえ……』 その態度にランサーは、これは面白いものを見たとでも言いたげに顔を笑みに歪め、 『大した態度じゃない。気に入ったわ』 無造作にバゼットを突き飛ばし、 『……聖杯戦争……ね。ふん、ああ実にくだらない。まったく、なんの因果でこんなことになったんだか』 実につまらなそうに呟いて、バゼットを見下ろした。 奇妙な形で両手を掲げ、ランサーは言葉を紡ぐ。 『レミリア・スカーレット……まあ、こうなった以上協力してやるよ』 なんて、偉そうに契約を認めたのだった。 「とりあえず、宿に戻りますか……」 回想を打ち切り、バゼットは買い物袋を抱えなおしてデパートを後にする。購入したのは大したものではない、保存の利く食料の類だけだ。時間をかけずに栄養補給出来る、と謳った商品が多いこの国は実にバゼットの性に合っている。 数台あるエレベーターの内一台にルーンを刻んだ石を置き、魔術の心得がない人間は乗れないような仕掛けを施してある。他の利用客には悪いが、エレベーターに乗っているところを奇襲されてはたまらない。自分専用と化したエレベーターに異常がないことを確認してから、バゼットはそれでも用心を重ねて自室がある階以外のボタンも適当に押しておく。 目当ての階でエレベーターを降り、一応同階を軽く見回り、ようやくバゼットは自室へと戻った。 「……?」 入った途端耳に届く聞きなれない音。音以外に違和感はないが、買い物袋を下ろし、コートに仕込んだルーン石をいつでも放てるように準備してからバゼットは寝室へと足を向ける。 そこには、 「お帰り、遅かったじゃない」 我が物顔でベッドに寝そべり、テレビをつまらなそうに眺めているランサーの姿があった。 「ここには珍しいものがあるのね。紅魔館にはなかったものばかりだわ。……まあ、別に欲しいとも思わないけれど」 言葉に合わせてなのか、ぱたぱたと背中の黒翼が揺れる。異形のパーツは見れば見るほど不自然だが、逆にその不自然さが一種コミカルでもあった。 「まったく、いい身分ですね、貴女は」 そのあまりのくつろぎっぷりに、思わずため息が漏れる。 「暇なのよ」 非難ともとれるバゼットの言葉をするりと流し、ランサーは大きく翼を羽ばたかせ、ベッドに腰掛けた。 「それで、どうだった?」 そもそもバゼットがランサーを置いて出かけたのは、聖杯戦争の監督役に会うからだった。参戦の表明と、ランサーのようにイレギュラーなサーヴァントが呼ばれた理由を問い詰める為であったが、 「どうにも妙です……キナ臭い。少なくとも言峰の口から何か異常がある、といったことは聞けませんでした」 コートを脱ぎ、タイを緩めながらバゼットはランサーの向かいにある椅子へ身体を預けた。 「監督役である彼が異常を把握していないとは思えませんし……それに」 教会で感じた悪寒を思い出し、バゼットは身震いする。 「どうしたの?」 「……いえ、上手く言葉に出来ないのですが、どうにもおかしい。彼は、確かに常人とかなり異なる面がありましたが、あれはそんな段階の話ではなかった。まったく未知の、何かおぞましい気配が……」 考え込み始めて、ふと自分に注がれるランサーの視線に気づく。 「……どうしました?」 「ん? 燃料補給しようと思って」 瞬間、バゼットの胸の中に予期せぬ重さが現れる。瞬きほどの時間もかけず、ベッドからバゼットの膝へと移動したランサーの体重だった。 「またですか!? いくら戦うのは貴女がメインと言っても、私も体調を崩すわけには……」 「お前の事情は聞いてないよ」 自分を見上げるランサーの瞳。 少女の風貌には不釣合いな、だが同時にこの上なくランサーに似合った絶対者の瞳だ。それはあるいは、ランサー程度の見かけの少女ならば誰もが持ち得る瞳なのかもしれない。自分が世界の女王であると誤解した、幼いゆえの傲慢。 「……まったく、またシャツが一着無駄になる」 諦め気味のため息を吐いて、バゼットは襟元からタイを抜き取り、シャツのボタンを一つ二つと外す。 幾多の戦闘を潜り抜けたにもかかわらず、傷一つない真っ白な肌が露出した。 「さあ、手早く済ませてください」 「ええ。それじゃあ、いただくわ」 言って、ランサーはバゼットの首元に口づける。 「んっ」 濡れた唇の感触にバゼットは小さく声をあげた。だが、次に襲い来る感覚に比べれば、そんな感触は子供だましに過ぎない。 微かな痛痒。そして、刹那の間も置かずにそれはやってきた。 「……っ!」 ゆるりと、自分の中から消失していく何か。それは赤い液体であり、同時に言葉にすらし得ぬ尊いモノ。 客観的には僅か数秒にしか過ぎない、だが主観的には永遠にも等しい恍惚。 それに囚われてしまえば二度と戻れまい。成る程、この誘惑に取り憑かれるものがいるのは、なんら不思議ではなかった。 かくも魅力的なのだ、血を吸われる感覚とは。 「よくわからないけど……これだけは便利ね」 口元から零れた液体がランサーの装飾過多な服を赤く染めていたが、呟くと同時にそれは元の色彩を取り戻す。 だがバゼットの服はそうはいかない。胸元までべったりと染めた血液は、洗うよりは捨てる方がてっとり早いだろう。 ゆるゆると息を吐き、バゼットは正気を調整する。 危うい、実に危うい。下手をすれば快楽に身を委ねてしまいかねなかった。もっとも、ランサーは少食らしいので向こうからお断りだろうが。 「まったく……本当に、とんだサーヴァント」 気だるい口調で呟きが漏れる。 ランサー、レミリア・スカーレット。 永遠に紅い幼き月と謳われる夜の王、彼女は英霊ではないどころか、その実人間ですらない。バゼットの知るそれ――死徒や真祖と呼ばれるモノ――に似ているが、明らかに違う存在。 ランサーは、 「なによ。吸血鬼が血を吸うのは当たり前でしょう?」 吸血鬼だった。 |