「あ……あれ、遠坂じゃないか?」
「……ですね。走りこみ、といった姿ではありませんが」
 遠くからでも目立つ赤い姿。見慣れた姿ではないが、見紛うはずもない。あの鮮烈な色彩な少女は、間違いなく遠坂凛であった。
「おーい、遠坂っ!」
 ペースを保ちながら士郎が大きな声で呼びかけるが、凛は振り向かない。意図的に無視しているのではなく、僅かに俯きがちなところを見ると何か考えごとでもしているのだろう。
「気付いてないのか……?」
「そのようですね。追いつきますか?」
「そうだな……なんでこんな早くにふらふらしてるのか聞かないとだしな」
 ややペースを速め士郎は、
「遠坂」
 そう声をかけながら肩を軽く叩く――寸前、
「っ!?」
 凛が身を翻す。士郎と距離を取って、左腕を翳し、
「――士郎? あのね、びっくりさせないでよ……」
 ため息を吐きながら、構えを解く。だが突然身構えられた士郎は釈然としない顔だ。
「あのなぁ、さっき声かけただろ。何をぼうっとしてたんだよ」
「……ちょっと考えごとしてたの。それより、士郎こそどうしてこんなところにいるのよ」
「え? いや、バゼットさんの案内も兼ねて、ランニング」
「見たまんまね……まあ、いいわ。話したいことがあるから、切り上げてもらえる?」
「言われるまでもなく帰路についていますから問題ありませんが……凛、貴女こそ何故ここに?」
 言って、衛宮邸の方へ向かいかけた凛を、バゼットが呼び止める。これがジャージ姿であったなら、自分達同様ランニングでもしていたのだろうと思うが、いつも通りの赤を基調とした私服姿だ。
「ちょっとね、学校に行ってたのよ」
「なんでさ? 休校だって、昨日藤ねえ言ってたろ」
 士郎の問いに凛は答えず、帰ったらそれも話すと言うだけでさっさと足を進めてしまう。とは言え、走る気がないらしい以上歩みのペースはランニングしている士郎達が上なのは当然だ。着替える手間もあるので、先に帰っていると凛に告げて、士郎とバゼットは再びペースを上げて走り始める。
「随分難しい顔してたな、遠坂……何かあったのか」
「学校に行った、と言っていましたね……そう言えば、ランサーがアーチャーと交戦する前に妙なことを言っていました。吐き気がするような魔術の痕跡を見つけた、と。凛はそれを確かめに行ったのではないでしょうか」
「一人で? 遠坂がそんな無謀なことするかなぁ……」
「ですが、サーヴァントを連れていては逆に怪しまれる可能性があります。部外者の私ならともかく、学生である凛なら好奇心に負けて覗きに行った、とでも言えば通じるのでは?」
「そっか。ちょっと遠坂のイメージとは違うような気もするけど、それは言い訳としちゃアリだよな」
 納得、というように士郎が頷くと何故かバゼットはくすりと笑みを漏らす。バゼットは大河や、バイト先であるコペンハーゲンの一人娘ネコさんと同じ年頃だろうが、明らかにその二人とはタイプが違い、穏やかな物腰もあって『年上のお姉さん』という印象が強いのである。
 そんなバゼットになんだか微笑ましそうに笑われ、士郎は僅かに頬を赤らめた。
「な、なんだよ」
「ああいえ、随分と凛のことを信頼してるのだなと」
「そりゃ、色々助けてもらったしな」
 ついでに言えば、以前から憧れていたのだから、さらに魔術師として己の遥か高みを行く凛の事を士郎が頼りにするのはある意味当然のことであった。
 そんなやり取りをしている内に衛宮邸へと辿り着く。
 着替えてくる、というバゼットと別れ、士郎もやはり着替えの為に一度自室へ戻り、制服を掴みかけてから休校だったことを思い出し苦笑。いつもと同じ飾り気の無い私服を着こんで居間へと向かえば、聞こえてくる包丁が奏でる軽快なリズム。
 自分が出かけていたのだから、衛宮邸でこの音色を奏でるものは一人しかいない。
「おはよう桜。早いじゃないか」
「あ、おはようございます、先輩」
 言いながら居間へと入ると、やはり台所に桜の姿があった。
「学校休みなんだから、ゆっくりしてればいいのにさ」
「あはは、いつもの癖でつい起きちゃって。二度寝もなんだかな、ですし、お客さんがいっぱいいるんで、ご飯の支度早めにやっておこうかなーって」
「む」
 言われてみれば、今現在の衛宮邸の人口は平時の3倍近い。
「そう言えばそうだよな……食材足りたか?」
「はいっ。伊達に先輩に教わってるわけじゃありません。色々工夫して、なんとかしちゃいました」
 えっへん、と胸を張って言う桜。
「そっか。ごめんな、いきなりお客さん沢山呼んだ挙句、食事の支度桜にやらせちまって」
 まあ実際は士郎が呼んだのではなく、半ば以上押しかけられたようなものなのだが、事情を話せない以上それは言えない。
 士郎の申し訳無さそうな顔に、
「先輩。先輩は昨日、わたしのこと家族だって言ってくれたじゃないですか。だったら、先輩のお客さんはわたしのお客さんも同然。お客さんのご飯の支度をするのは、家人として当然のことです」
 桜はすまし顔で答えた。
 そんな桜の明るい様子に、士郎はほっと一息。
「それより先輩こそ、こんなに早くどうしたんですか?」
「え? ああ、バゼットさんが」
 言いかけて、周囲の様子を知りたい、など普通に滞在するには不要な行動だと気付き、士郎は思わず口ごもる。それを、桜が訝しく思わないはずがなかった。
「バゼットさんが?」
「……あー、ランニングが日課とかで、ほら、不慣れな日本だし。たまたま庭で会ったから案内がてら付き合ったんだ」
「あ、そうなんですか」
「ああ、道場で軽く身体は動かしてるけど、あんまり走りには行かないし。いい機会かなって」
「…………」
「桜?」
 何故か黙ってしまった桜を士郎が覗き込むと、なにやら深刻な表情。
「どうかしたのか?」
「え? あ、い、いえっ、なんでもないです」
「?」
 その慌てように少しひっかかるも、
「ただいま」
 普段の響きよりも僅かに硬質を帯びた凛の帰宅を告げる声が居間まで届き、そのひっかかりを桜に問うタイミングを逃してしまう。
「あれ、遠坂先輩も出かけてたんですね」
 などと桜が呟いているうちに、凛は居間までやってきた。
「おはようございます、遠坂先輩」
「おはよう、桜。悪いけど士郎借りていくわよ」
 桜の挨拶にそっけなく返すと、凛は指でこっちへ来い、という仕草をすると、そのまますたすたと行ってしまう。おそらく離れの一室に陣取った自分の部屋に向かったのだろう。
「……? 遠坂先輩、こんな朝から先輩に何の用なんでしょう」
「なんなんだろうな……とりあえず行ってくる。あー、悪いな、桜。朝飯の支度一人でやらせちまって。昼は任せてくれ」
「いいんですよ、先輩。わたしお料理好きですし。それに、こうやってお料理の経験を積んでいれば、将来の目標達成がどんどん近づいてきますから」
「将来の目標?」
「先輩の味を越えるコトです。もうすぐ射程距離だと思いますけど?」
「む」
 再びえっへんと豊かな胸をそらして言う桜に、士郎は思わず呻いた。
 確かに、桜の料理の腕はメキメキと上達している。
「見ててくださいね、先輩。いまにまいったって言わせてみせますから」
 楽しげに笑う桜に、先程の深刻な面影はない。それにほっとしながらも、弟子の思わぬ野心に苦笑い。
「はあ、うちに来るまでサラダ油の存在も知らなかったのになぁ……」
「そ、それは昔の話ですっ」
「そうだな。ま、今日の昼は師匠の面目躍如ってことで、十年間のクッキングライフの集大成を見せてやろう」
「わ。先輩のお料理の集大成ですか、楽しみです!」
 わあいとばかりに喜ぶ桜。
「……ひょっとして、俺が力入れて作れば作るほど桜の経験になるのか?」
「ふふ、さーてどうでしょう?」
 なんて言いながら笑う桜は、本当に楽しげだ。穏やかな桜がこれほどテンション上がっているのは実に珍しい。
 まあ桜も年頃の女の子である。パジャマパーティーの翌朝ともなればそれなりにテンションは上がっているのだろう。水を差すのも悪いと思い、士郎は特に問うこともなく、
「じゃあ、遠坂んとこ行ってくるな」
「あ、はい。行ってらっしゃい、先輩」
 笑顔の桜に見送られて、居間を後にする。
「ええと、遠坂の部屋は……ここか」
 離れに入ってしばらく探すと、一番いい客室に"ただいま改装中につき、立ち入り禁止"なんて札がかかっている。
「目聡いヤツだなぁ」
 まあ、別に使ってなかった部屋だしどうこう言うつもりはないのだが。
 ノックすると、
「遅い、さっさと入りなさい!」
 えらい勢いで怒られた。
「あのな、桜と話してたんだぞ……って」
 流石に反論しながら入室して、士郎は絶句する。
 つい昨日までベッド以外何もなかった部屋だというのに、用途もわからない器具が溢れ出す魔窟と化していたのだ。
「……なによ」
 士郎の表情で言いたいことは察しているようで、やや後ろめたそうな顔で突っ込む凛。
「……なんでもない。まあ納得と言うかなんと言うか。それで遠坂、学校なんて何しに行ったんだ?」
「やはり結界に関してですか?」
 既に室内にいたバゼットが続けて問うと、凛は僅かに驚いた様子を見せるが、
「そっか、バゼットはランサーのマスターなんだから知ってて当然ね。ええ、昨日はどたばたしてて放置してしまったけれど、あんな結界そのままにはしておけないもの。消去しに行ったんだけど……」
「何かあったのか?」
「……葛木に会ったわ」
「クズキ?」
「葛木って……世界史の葛木先生か? 別に学校で先生に会うっておかしいことじゃないだろ」
「あのね士郎、状況を考えてみなさい。あんな半壊した校舎に行くわけないでしょう」
「その、クズキという人物は学校の教師なのですか? でしたら、報道への対応や職員会議などがあるのでは」
「考えられないわけじゃないけど……そういうのって、普通平教師まで動員されることなのかしら。実際、藤村先生はまだ寝てるわけだし」
 確かに、玄関に大河の靴はあった。ちゃらんぽらんに見えるが、あれでもびしっと教師する時はちゃんとしているのだから、それももっともな話だ。無論、教師の内一部が呼ばれた、という可能性もあるが。
「でも葛木先生が魔術師なわけないと思うぞ」
 確かに堅物すぎるなど、少々変わった点はあるが、葛木宗一郎は実に筋の通った人物だ。魔術師、まして聖杯戦争に参加しているマスターだとはとても思えなかった。
「士郎は私が魔術師だってのも知らなかったでしょうが……まあ、確かにマスターとしての気配も感じなかったし、そもそも魔術師じゃないとは私も思うけど」
「凛、それは矛盾しています。マスターの気配は感じない、魔術師でもない、しかも教師と言うことで学校にいてもおかしくない人物なのでしょう。何を怪しんでいるのですか?」
「だって、怪しいじゃない。仮に職員会議で呼び出されたのだとしても、屋上まで葛木一人で来る道理はないわ。藤村先生ならともかく、あの葛木が好奇心で見に来るような真似、すると思う?」
「それは……」
「そうなのですか?」
 葛木を知る士郎は、凛の言葉に思わず納得してしまった。首を傾げるバゼットに、
「それでマスターってのは乱暴な考えだけど、確かに葛木先生らしくないとは思う」
 手短に説明すると、バゼットはふむと頷いて、
「ならば、怪しいのでしょう。この際です、多少乱暴になっても確かめてみては?」
 なんてトンデモナイことを口にした。
「あらバゼット、気が合うわね。偵察用の使い魔を放っておいたわ。人目が無い夜にでも、それで位置を捕捉してマスターかどうか確かめましょ」
 なにやら分かり合っている凛とバゼットだが、当然士郎は慌てる。
「ちょ、ちょっと待て。確かめるってどうするつもりだよ」
「どうするって……そりゃ勿論」
「実力行使、という形になるでしょうね」
 何を当たり前のことを、とでも言わんばかりに息が合っている凛とバゼット。
 士郎は大きくため息を吐き、
「あのな。――俺は反対だ。確かめるにしても、もっと穏やかな方法があるだろ。実力行使なんて、危険すぎる」
「危険じゃないわよ。陰から軽めのガンドを打つだけだもの。もし葛木が一般人でも二日風邪で寝込む程度よ?」
「一般人なら葛木先生に気の毒なだけだけど、ほんとにマスターだったらヤバイだろ。いきなり攻撃しかけたら、そのまま戦闘になるぞ」
「何か問題が?」
「あ、あのなっ! 大アリだろっ。話し合いの余地無くしてどうするんだ!」
「あのね士郎、葛木がマスターだとしたら、学校の結界は葛木が仕掛けた可能性が高いわ。アレ、とんでもない代物よ。相当な攻性結界……発動したら中にいる人間がどうなるか」
「そうですね。私はその結界を直接見ていませんが、あのランサーが吐き気がするなんて言うくらいです、よほどのものなのでしょうね」
 そんじょそこらのモノならば鼻で笑いそうなランサーがそこまで嫌悪をはっきり表すと言うことは、おそらく相当エゲツないのだろうとバゼットは顔をしかめる。
「そんな結界を設置した相手に、話し合いが通じると思う?」
「……それは」
「まあ士郎がどうしても嫌だって言うなら、無理強いはしないわ。幸いバゼットは乗り気みたいだし、残りのクラスはアサシンかキャスター。結界敷設を考えればキャスターだろうから、アーチャーとランサーが揃っていれば問題なく倒せる敵だもの」
「…………」
「まあ、仕掛ける時は言ってから出かけるから。それまでに方針は決めておきなさい」
 言って、凛は立ち上がる。話は終わりだ、ということなのだろう。
 短いつきあいではあるが、凛が一度言い出したことをやめさせるのはほぼ不可能と思い知ってる士郎は重々しい息を吐き出し、
「……いや、俺も一緒に行くよ。人手はあった方がいいだろ」
 葛木には悪いが、出来れば襲撃を素直に受けて風邪で寝込んでくれと祈りにも似た願いを抱きつつ、同行に同意した。

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