どんよりとした雲が星空を隠している。 教会へと続く道は外人墓地に挟まれ、普段から大した人出は無い。まして夜ともなれば誰が好き好んで墓場などに近づくだろう。まあ、人気が無いことを求めるような輩がいないわけでもないが、不思議とこの外人墓地はその手の連中がたむろすることがなかった。 そんな少々真っ当から外れた人間すら近づかないようなこの教会へ至る坂を上る集団があった。 いずれも年若い――否、見るからに小学生な子供すら混じっているその集団は、言うまでもなく衛宮士郎とその仲間達である。そういう形容は、ランサーあたりが不満を唱えそうではあるが。 既に少しばかり前に武装は済ませており、万が一人目に触れたら一体この仮装集団は何者なのだろうかと相当怪しまれたことだろう。 先頭に立つのは漆黒と宝石の翼を隠そうともしないランサーとバーサーカーの姉妹サーヴァント。続くは既にバリアジャケットを装着し、己が相棒を手にするセイバーとアーチャー。次に並ぶ士郎と凛は一応マトモな人間だが、士郎はいつでも強化が施せるように木刀を手にしているし、凛にしても自前の赤い戦闘用コートを纏った姿は明らかに普通に街を歩く姿ではない。さらに、しんがりを勤める葛木は異様な黒のボディスーツ姿なのだから、これを怪しむなと言う方が無理がある。幸いにも今のところ人目には触れていないが。 「なあランサー、どうしても正面から行く気か?」 堂々と胸を張って歩くランサーに、無駄だとは思いながら士郎は問いかける。 作戦会議――と言うほどのものではないが、一応行動の指針のようなものは出かける前に打ち合わせてきた。だがそれは、要するにギルガメッシュと交戦する前に言峰を探し出し打倒する、ということであり、本当に作戦でもなんでもない単なる指針に過ぎない。それでもせめて裏から回るとか、何か手を打つべきではないかと提案してみたのだが、 「五月蝿いわねえ。そんな小細工がいるのは人間だけよ」 ランサーがこの調子ですっぱり否定してしまう。 そして、珍しく凛もランサーの意見に同意していた。 「教会は綺礼の本拠だもの。裏から回ろうが、どうせ侵入はすぐに察知される。なら、下手に狭いところに踏み込むよりは正面から行った方がマシよ」 確かに、この場にいる少女サーヴァントのほとんどが中〜遠距離戦を主体としているのだから、手狭なところで戦うのが不利になるのは火を見るより明らかだ。本来ならば室内に踏み込むのも避けたいくらいだが、急を要する状況ではのんびり待ち構えてもいられない。 「正面と裏手の二面作戦と言うのも考えではないが……ギルガメッシュとやらのことを考えると、下手に戦力を分断させるのも良くなかろう」 最後尾を歩く葛木の肩のあたりに浮遊する小型化したキャスターが、姿に見合ったやけに可愛らしい声で口を挟む。 そう重ねて言われては士郎も納得するしかない。強く主張出来るほどの作戦があるわけでもないのだ。 会話が終わる。 静かな――静かすぎる夜だった。 先日バゼットと共に訪れた時もそうだったが、生物の死滅した深海じみた空気にセイバーは思わず身震いする。世界の存亡、とまでは言わないが、最悪数千単位の犠牲が出かねない災厄――共にサーヴァントとして呼ばれたアーチャーが未だ体験せざる闇の書と呼ばれる概念武装を巡る戦い――に臨んだ時ですら、こんな感覚は無かった。 「フェイトちゃん……大丈夫?」 「え? あ……うん、平気だよ、なのは。なのはこそ、大丈夫?」 言われてアーチャーの顔を見れば、やはりこの異常な空気を感じているのか。健康的な桃色の頬が僅かに青褪めている。 「大丈夫だけど……なんだろ、この嫌な感じ。怖いって言うのとも違う。なんか……変」 「あまり気にするな。異界の気に中てられているだけだ」 「異界の気?」 「知らん方が良い。知れば戻れなくなる道だ」 問いかけるアーチャーにそっけなく答える。 キャスターは識っている。己を手にした主達だけではない。偶然から、必然から、世界の裏側を、おぞましき邪神の企みを知ってしまった者達を。そして、彼等が歩む道を。 真実を知ってしまった者達の選択肢は二つ、歩む道は一つだ。 選択肢の一つは死。おぞましい真実に耐え切れず、邪悪が己が精神を犯す前に自ら命を絶つ者がいる。だがそれを逃避と呼ぶなかれ。臆病と呼ぶなかれ。それもまた、一つの英断であるのだ。 そして死を選ばぬ者達は、皆戦いの道を歩く。ある者は恐怖、ある者は義憤、ある者は復讐、根底にある想いこそ違えど、彼等は皆戦士であった。 忘却など許されない熾烈な真実など、出来れば知らない方が良いに決まっている。 (しかし……) 肉球と化した手を顎に当て、キャスターは思案する。 一度訪れた時に比べ、若干ではあるが異界の気配が薄い気がする。桜と言う主を失ったライダーが弱体化している為だろうかとも思うが、想像の域を出ない。 「そろそろ……お喋りはやめておいた方がいいわよ」 凛の硬い声で思考が停止させられる。顔を上げれば、神の家であると言うのに傲然とそびえ立つ教会の威容がそこにあった。 だがそんな見かけがランサーを臆させるわけも無く、まったく変わらぬ歩調で早速教会へと踏み込もうとするのを、 「ランサー、ちょっと待ちなさい。交戦までは慎重に行きましょ」 凛が呼び止める。 「アーチャー防御お願い。セイバー、扉だけを撃ち抜ける?」 二人が頷くのを見て、凛はさらに指示を続けた。 「奇襲に備えて防御能力の高いアーチャーが先行。状況に応じてランサーと交代って形でいいわね?」 「わかりました」 「……まあ、任せるわ」 ランサーが下がったところに、アーチャーとセイバーが進み出る。アーチャーは己が愛杖を構え、即座に防御魔術を発動できるように術式を練り、セイバーもまた、バルディッシュを構え、 「フォトンランサー……ファイア」 セイバーの声に応じ、最小出力にて発動した雷球が扉へと疾った。 乾いた音を立てて重厚な扉が爆砕される。 「……誰もいない、か」 背の低い少女サーヴァント達がフォワードゆえに、士郎からも問題なく中の様子は窺えた。 聖堂は数日前に訪れたのと同じように静謐を保っている。何者かが待ち伏せている気配も無い。 ただ、 「何よこれ、酷い臭い……」 数日前も何かが腐ったような臭いがしていたが、爆砕された扉から流れてくる空気に混じる臭いはそれよりも更に濃い。 皆が顔をしかめる中、セイバーは一人僅かに首を傾げる。 確かに酷い臭いだが、先に訪れた地下聖堂で嗅いだ臭いとはまた異質な臭いだ。あの時感じたのは死臭じみた悪臭だが、今この場に漂っているのは妙な生臭さだった。 「姿が見えないわね……やっぱり、バゼットを襲ったとかいう地下かしら」 「出来ればあまり踏み込みたくないけど……仕方ないな」 「行きましょ。アーチャー、くれぐれも用心してね」 「はい……あ、ちょっと待ってください。レイジングハート、制御お願い出来る?」 《Yes,my master》 歩き出しかけたアーチャーだったが、何か思いついたらしくレイジングハートに何事かささやきかける。 《Divine shooter》 硬質の声が紡ぐ術式。レイジングハートの先端に配された紅玉から桜色の魔力弾が生成され、アーチャーから数歩離れた場所に浮かぶ。 「成る程、その魔力弾を先行させるわけね」 精密な射撃操作はアーチャーの十八番だ。今のアーチャーはその域に至っていないとは言え、遠からず十二もの魔力弾を高速同時制御が可能になることを、セイバーは知っている。もっとも、それはアーチャー自身の向上だけではなくレイジングハートの強化も合わさってのことなのだが。 それほど剣呑な印象はないが、それでも攻性の魔力弾である。なんの余波も無く消すのも難しい。先行させれば、何者かが潜んでいる場合必ず何かしら反応が得られるはずだ。 「行くよ、レイジングハート」 《All right》 アーチャーの声に応え、ディバインシューターがゆるゆると移動を開始する。 人の気配の無い教会内、明かりも付けられておらず、中を照らすのは先行するディバインシューターの明かりだけだ。その光景は、端から見ればまるで鬼火に惑わされているかのように見えるだろう。 時折足を止め、一度訪れたことのあるセイバーに道を聞きながら魔力弾を先行させる。 魔力弾が何かにぶつかるようなことは無く、事実人影すら見当たらない。分かれ道にぶつかるたびに周囲を警戒するも、後から追ってくるような気配もまた、皆無だった。 「まさか……もうここを引き払ったんじゃ」 「それこそまさかよ。わざわざ自分に有利な場所から離れる馬鹿もいないでしょ……けど、入れ違いになった可能性はあるわね……まあ、その場合は探索が終わり次第教会の前ででも待ち伏せればいいと思うけど」 だんまりでは緊張のあまりはちきれてしまいそうだ。歩きながら士郎と凛は囁きを交わす。 「とりあえず、バゼットさんだけでも助けられれば良しとするか」 「そうね。怪我人を連れ歩くメリットはないだろうし」 最悪のケースはバゼットが既に始末されている場合だが、ランサーが現界しているところを見ると何らかの理由があって生かされているのだろう。 そんな会話を交わしている内に、地下へ続く階段の前に到着した。細い細い階段だ。少女サーヴァントでも二人並んで降りるのは厳しそうだが、幸いこの場にいる面々の内ほとんどが飛行可能である。横に並べなくても縦という手段が取れる。 「――っ」 ディバインシューターの光があるが、照らされているのはほんの僅かな範囲だけで目を凝らしても階段の奥に見えるのは闇だけ。 にも関わらず、何か嫌な予感がした。首筋に大型の肉食獣が牙を突き立てられる寸前のような、言い知れぬ悪寒。 「……どうしたのよ、士郎」 士郎の身震いに気づいたか、凛が訝しげに問いかけてくる。 それに、 「いや……大丈夫だ、何でもない」 軽く頭を振って湧き上がった悪寒を払い、問題無いと伝える。実際、悪寒の正体は士郎自身説明出来ないのだから。 《Flier fin》 レイジングハートがアーチャーの意思を受けて魔術を紡ぎ、靴から生えた小さな翼がアーチャーを空中に舞わせた。 今まで以上に慎重に、ゆっくりとディバインシューターを先行させる。 「……明かり? 誰か、いるのかな」 しばらく進み、下の方から僅かに漏れる光にアーチャーが呟く。魔力弾が放つ桜色の光と合わさり、階段の終わりは不気味な紫色の光に包まれていた。 そして、 「……っ!?」 「な、なに……これっ!」 先頭を進む二人が思わず悲鳴のような声をあげる。一体どうしたのかと問うまでも無く、その原因はすぐに士郎達の目にも入ってきた。 「……なんだ、コイツ」 生物じみた薄青い燐光と、魔力弾が放つ桜色の輝き、両者が混ざり合った紫に照らされて、ソイツは居た。 深海に棲む生物めいたぬっぺりとした肌、おぞましい牙の生え並ぶ開け放たれた口、不恰好な翼のようなものが生えている為か全体的なシルエットは竜にも見えるが、印象としてはむしろ海鼠や蚯蚓の類に近い。 「ヤディス星を滅ぼしたドールに関する記述か……?」 真っ当な生物とは程遠いその姿に、キャスターが真っ先に考えたのはライダーによって召喚された断片の怪異ではないかということだった。しかし、キャスターの知識にあるドールとは大きく姿が異なっている。キャスターの知るドールは全長数十メートルにも及ぼうかと言う巨大な怪物だ。 もっとも、例えばキャスターの断片から零れ落ちたアトラック=ナチャの記述によって生まれた怪異がその名を冠する神性そのものでないのと同様に、元の存在とは違った形を取る可能性は十分にありえる。そう考えたキャスターだが、次の瞬間にはその考えを自身で否定する。 仮にライダー――ナコト写本によって呼び出されたのならば、その気配をキャスターが気づかぬはずはない。 「知ってるのか、キャスター」 「いや……ナコト写本の断片と思ったが、彼奴の気配は感じぬ。妾にもわからんな……印象としては確かに異界のモノに近いが」 「結局何もわからないってことじゃない。使えないヤツねぇ」 単純に思ったことが口に出たらしく、嘲る意図の無い内容に反した意外にさっぱりとした口調だ。それで自分が説明するなら納得もするが、隣で怪生物を興味深げに眺めるバーサーカーに、 「フラン、あんな妙なモノをそんなにしげしげと眺めるものじゃないわ」 などと言っているだけなのだから、怒るより先に呆れの方が出てくると言うものだ。 「……ふんぞり返ってるだけの汝には言われたくない」 思わず愚痴るが、当然ランサーは聞く耳持たずだった。 そんなやり取りを横目に、士郎と凛も身構えながら階下を観察する。全長は4メートルほどだろうか。地下聖堂を我が物顔で寝床にするソイツは、今のところ暴れる気配はないが、 「何なのかわからないけど……まずいぞ遠坂、あんなのに下手に暴れられたら……」 「わかってるわよ……けど、どうしたものかしらね……」 まさかこれほど巨大な化け物を飼っているとは完全に予想外だった。相手がサーヴァントならまだ立ち回りようがあるが、こんなのが相手では如何ともしがたい。 「ははっ、なに虫けら程度でビビってるのさ!」 「!?」 突如闇の奥から場違いに明るい声が響く。聞き慣れた、どこか人を小馬鹿にしたようなその声は―― 「慎二か!?」 「……様をつけろよ、野良犬風情が。お前、誰に口を聞いてるつもりなのさ」 一転して不機嫌になった声の調子が、 「まあいいや。衛宮と遠坂だけ入って来いよ。他の連中はそこにいろ、そうしないと……色々後悔することになるぜ? 色々とね」 次の瞬間にはまた底抜けに明るくなる。明らかに精神の安定を欠いている様子だった。 「……自分こそ誰に向かって口を聞いてるのかしら、屑がまた何か勘違いしてるみたいね」 早くも額に青筋を浮かべんばかりのランサーを、 「ちょ、ちょっと待てランサー。バゼットさんのこともある。ここはひとまず俺と遠坂に任せてくれ」 士郎は慌てて呼び止める。一体慎二が何故あんな状態なのかはまったくわからないが、魔術回路が開いた程度でランサーとやり合えるとはとても思えない。 「……どう思う、遠坂」 「……ま、とりあえず行くしかないわね」 ずい、と同時に足を踏み出し、 「…………」 「…………」 二人は無言でにらみ合った。 「遠坂、なんで前に出るんだ。得物を持ってる俺が前、遠坂が後ろで援護ってのが普通だろ」 「それは多少の差はあっても実力の近い同士のフォーメーションでしょ。アンタみたいなへっぽこが前に出てどうするってのよ。いくら相手が慎二だからって、今のアイツは何を仕込んでるかわからないもの」 「だったら尚更だ。危険な矢面に遠坂を立たせられるもんか。俺が先に行く」 「あのね……冷静に考えなさいよ。アンタとわたし、どう考えてもわたしの方が色々対応出来るでしょうが」 「おい、なにゴチャゴチャやってるんだ! さっさと来いよ!」 言い争いを止めたのは、闇の奥から届くヒステリックな慎二の声だった。 「……遠坂、言い合ってる場合じゃないみたいだぞ」 「アンタが折れれば済む話でしょうに……まあいいわ。ここはわたしが折れたげる、どうせ慎二相手だしね……」 魔術回路を得たと聞いているが、魔術師が魔術師足る理由は回路の有無などではない。重要なのは心の在り方であり、そこが欠けている慎二など所詮は――妙な表現だが――"魔術が使える一般人"でしかない。 己がサーヴァントの心配げな言葉を受けながら、士郎と凛は怪生物の横を通り奥にある入り口らしきモノを潜る。 「……う」 足を踏み入れた瞬間、まず異様な足元の感触に顔をしかめる。触れている場所が汚染され、腐らされるような印象すら受けた。 さらに相変わらずの臭いに加え、さらに異質な悪臭までもが漂っていた。すえた生物臭に、澱んだ死臭、そしてホルマリンじみた薬品臭は混ざり合うことなく、常に嗅覚を刺激し続けている。 「よく来たね、衛宮、遠坂」 未だ目に慣れぬ闇の奥から聞こえて来る慎二の声。それは、サディスティックな愉悦を含んでいた。 「慎二……お前、一体こんなところで何をしてるんだ」 「……だからさぁ、様を付けろっつっただろ? 言葉を慎めよ」 ばさりと、何かを翻す音が聞こえる。 同時に、今までの暗さとは真逆の光が室内を照らした。 咄嗟に目を細めるが、光量の変化に視界が混乱する。一瞬ホワイトアウトし、復活した視界に入ったのは、 「お前らは、偉大なる魔術師……いや、魔術師なんて呼び方は相応しくないな。皇帝……そう、これから世界を手中に収める魔道皇帝間桐慎二様の前にいるんだぜ?」 なんて場違いな服装。 ラテンダンサーじみた胸元が大きく開き、合わせの部分にフリルがふんだんにあしらわれたシャツに、ラメ生地にスパンコールで悪趣味に彩られたセクシーなパンツ。真紅のマントを翻すその姿は、まあ贔屓目に言っても道化芝居に登場する騎士様がいいところだろう。 だが、その奇天烈な衣装に目を奪われたのはほんの一瞬だ。僅かに遅れて視界に入ってきた周囲の様子の方が、よほど衝撃的だった。 「な――」 入り口から慎二の居る奥に至るまで、乱雑に死体が積み重ねられている。 白昼に等しい明かりの下、しかも室内は狂った芸術家が絵具をぶちまけたかのように統一感の無い出鱈目な色彩で支配されている。そんな状況下では、あまりにも凄惨過ぎるソレらは蝋で作られた偽者めいて見える。 だが、偽者が、蝋人形が嗚咽を漏らすものか。 声にすらならない。空気すら振るわせない。それでも彼らの悲鳴は、嗚咽は、肌で感じられた。 「っ」 凛も同じく、転がる死体達が生きていることに気づいたか、咄嗟に漏らした声は悲鳴を押し殺したかのようなものだった。それを見て、嘲笑せぬ慎二ではない。嫌らしい口調で、 「おやおや、魔術師の遠坂はこの手の光景は見慣れたもんだと思ってたんだけど?」 などと、神経を逆撫でする言葉を口にする。 「これはどういうことだ、慎二っ!」 「ほんとに懲りないヤツだね、衛宮。口の利き方がなってないよ。コイツ、殺しちゃうぜ?」 言われて気づく。死に支配されたこの地下室に不似合いな、虚飾に満ちた豪奢な椅子に腰掛ける慎二の足元、黒い影のようなものに束縛されているのは―― 「バゼットさん!?」 「理解出来たかい? 主導権はこっちにあるんだよ!」 得意げに言い放つ慎二に、士郎は木刀を構えながらも歯噛みする。 こうやって対面するまでは、慎二が怯えや恐怖から無闇矢鱈と攻撃的になっているのだと思っていたが、流石に面と向かい合って気づかないほど士郎も愚鈍なわけではない。慎二は、明らかにこうして士郎達と敵対することに愉悦を覚えているようだった。 「……何が望みだ」 「はあ? わかんないヤツだね、衛宮も。口の利き方に気をつけろって言ってるだろ?」 慎二の踵が無遠慮にバゼットの胸に下ろされる。 「状況がわからないのか? ほら、言い直せよ。どうすればいいかわかるだろ?」 下卑た笑いを浮かべる慎二。だがその笑いは、 「状況がわかってないのはアンタよ、慎二」 苛烈な吹雪の如き凛の声によって凍りついた。 一体何時の間に準備したのか。凛が慎二へと向けた指には四つの宝石が煌めいていた。無論、ただの宝石であるはずが無い。 「そうね、確かに士郎にとっては有効な手かもしれない。けど、生憎わたしは士郎ほどの人道主義者じゃないの。一度だけチャンスをあげるわ、慎二。今すぐ馬鹿な真似はやめなさい。そうすれば、見逃してあげる」 「遠坂!」 「士郎は黙ってなさい。実際慎二の言いなりに成る程バゼットに義理があるわけじゃないでしょ」 「……う、ぐ、こ、コイツがどうなってもいいって言うのかよ!」 人質さえ取ればなんの問題も無く士郎達を無効化出来ると信じていたのか。一瞬前までの余裕綽々の態度はあっという間に崩れ去り、どもりながら稚拙な脅迫を怒鳴り散らす慎二だが、凛から返ってくるのは冷たい眼差し。 「カウントダウンでもされたい?」 指先に挟んだ宝石が剣呑な光を灯す。 「く――くそくそくそくそくそっ! 後悔するなよッ!!」 「っ! 慎二っ!」 ヒステリックに叫び、なんらかの魔術を起動するつもりなのか、慎二が片手を上げる。咄嗟に凛も宝石の魔力を解放すべく呪文を紡ぎ、士郎もまた慎二の行動を阻止する為に駆け出す。 だが、それら全ての動きよりも速く、 「なにをやってるのよ、屑が」 極点に吹き荒ぶブリザードよりも凍てついた声と同時に、死に満ちた部屋を風が駆け抜けた。 こんな地下に自然風が吹き込むはずがない。渦巻く風の作り手は、目にも留まらぬ速さで室内に躍り込んだランサーだ。 「え?」 腕を振り下ろそうとし、突然目の前に現れたランサーに慎二は間抜けた声をあげる。移動の過程がまったく見えなかった。まるで手品か、編集されたビデオ画像のよう。勿論、自分の頬にめり込もうとしているランサーの小さな拳を目で追うことも出来ず、 「おぶッ!?」 潰れた蛙のような無様な声をあげ、座っていた椅子もろとも壁際まで吹っ飛んでいく。 「まったく、お前もお前よ、バゼット。仮にもこの私の主を名乗っておいて、この醜態は何?」 無論バゼットに支配されているつもりはまったくないが、形式上と対外的にはそういうことになっているのであることは理解していた。そんなバゼットが慎二如きに好き勝手されているなど、論外にも程がある。 冷たく見下ろしながらも、ランサーは魔力の篭った爪でバゼットを拘束する影のようなものを平然と切り裂いていく。今の醜態は確かに許しがたいが、そこをぐっと呑んで支配者の度量の広さを見せることも重要なのだから。 「……ご、ごほっ……か、返す言葉もありません。助かりました、ランサー」 口も塞がれていた為、言葉を発するどころか空気を喉に通すのも何十時間かぶりである。 掠れた声で感謝の言葉を紡ぐバゼットに鷹揚に頷くと、 「さぁて、その屑はどうしてくれようかしらねえ……」 養豚場へ連れて行かれる豚でも見るかのような慈悲のない眼差しを慎二へと向けた。 そこに、 「ランサー! 汝が原因で起こった問題くらいなんとかせぬかっ!」 飛び込んでくるキャスターの声。思わず士郎達まで振り向けば、アーチャー達が残った聖堂から奇妙な鳴き声めいた音が聞こえてくる。そんなものが聞こえてくる理由など、一つしか思いつかない。 「さっきの化け物が暴れてるのか!?」 「アーチャーとセイバーで何とか抑えておるが、術式を扱いきれぬ宗一郎では決定打を打てぬ。あそこで暴れられては手に負えんぞ!」 キャスターがそう叫んだ瞬間だった。何か名状しがたい湿った音が響き、次いで聞こえるのは一際大きな奇妙な鳴き声――だが、それは継続することなく先細りになって聞こえなくなる。 思わず振り返った一同の目に入ったのは、 「……宗一郎、汝」 「あれだけ大口を開けていては、狙ってくれと言っているようなものだろう。特別な得物など無用だ」 入り口を潜ってくる上半身をべっとりとした粘液で濡らした葛木と、その後ろで目を丸くするセイバーとアーチャーの姿だった。どうやら、大きく開いた口に身体を突っ込み攻撃したらしいが、発想自体出てきてもなかなか実行できることではない。 そんなやり取りが、慎二に態勢を立て直す時間を与えた。 「こ……のっ、クソガキッ!! 自分の立場がわかってないのかよ!」 「……目上に対する言葉遣いがなってないわねえ、ガキが。どういう教育されてきたのかしら。こちとらこう見えても年長者なのよ? もっと敬いなさいな。大体、お前はもうお仕舞いでしょうが」 「はっ! 終わり!? 僕が!? まさか僕が握ってるのがその女の命だけだと思ってるのかい!?」 立ち上がりながら真紅のマントを翻す、その様子はそれなりにさまになっていた――鼻血さえ垂らしてなければ。 「そこに居る化け物、アレがなんだと思う!? アサシンもガキだったけど、アイツは使えるヤツでね……アレは、爺が飼ってた蟲をアサシンが弄ってああなったんだよ! そしてっ、うちにはアレの元になった蟲がごまんといて、ソイツらは僕の命令一つで地下から溢れ出す! わかるだろ、この意味が!!」 「……慎二、お前――本気なのか」 慎二が口走ってるのは、この聖杯戦争とはなんの関わりもない人々を皆殺しにするという意思表示に他ならない。 「本気に決まってるだろ! さあ、どうするのさ遠坂? 街中の人間を見捨てることが出来るかい? あははは、出来るわけないよな!」 腕を組み、尊大にふんぞり返りながら哄笑する慎二。凛が再び宝石を構えようと、今度は脅えるどころか怯みもしない。当たり前だ、バゼットと街の人々では常識的に考えて命の重みが違う。数は勿論のこと、バゼットは命を落とすことを覚悟して戦いに臨むマスターであるのだから。 「遠坂……ダメだ。引いてくれ」 「黙ってなさい、士郎。ここで引いて、慎二が命令しないなんて保証はないわ」 「ああ? 心外だね。ちゃんとお前らが言うことを聞くなら、僕だって無駄な殺しはしたくないさ」 凛と違い、士郎は折れる気配濃厚と見たか。慎二の声に若干余裕が戻ってくる。 「だからさ、ほら、さっさと降参しろよ。慎二様の奴隷になりますって、跪いてお願いしてみせなよ! そうだな、手始めに散々舐めた口を利いてくれたそこのガキからだ!」 相変わらずガキ呼ばわりされて指名されたわりに、ランサーはいたって平然としていた。そればかりか、驚くことに思案顔を浮かべ、 「跪いて、お願いねえ……」 呟きながら、慎二へと歩み寄る。その動きに凛は思わず舌打ちした。単純に背丈だけなら十分射線は通せるのだが、生憎ランサーの背には少女の身には不似合いな巨大な翼があり、凛の位置から魔術を放とうとするとランサーへ当たってしまう。慎二が何をするつもりでも、行動を起こす前に昏倒させてしまえば問題無いのだから、射線を塞がれてはまずい。魔術刻印を起動させながら、じわじわと位置取りの為に移動する。 「そうだよ! そうじゃなきゃ街中の人間は皆殺しだぜ? ほら、早くお願いしてみせ」 「やなこった」 慎二の感極まった声をぴしゃりと遮ったのは拒絶の言葉だった。 「な……!? ま、街の人間を皆殺しにするんだぞ! いいのかよ!」 「そう脅せば思い通りになるとでも? だが断る。このレミリア・スカーレットの好きなことの一つは、何もかも自分の思い通りになると思っているヤツに『No』と言ってやることよ。勝手にやればいいでしょ」 「……言ったなクソガキ。やってやる、やってやるぞぉぉぉっ!!」 「や、やめろ慎二っ!」 「くっ!」 最早注意を引かないように、などと考える意味は無い。サイドステップで大きく動いた凛がガンドを連射するが、 「うそ……!」 慎二の纏った真紅のマントが呪いの掃射を弾き散らす。最小威力でつるべ撃ちにしたのが仇なしたか。だが布程度で防げるシロモノではない。一体何故と思考する凛の脳裏にある考えが閃く。この教会本来の主である言峰は聖遺物回収の任に当たっていたことがある。任務中に見つけた概念武装の一つや二つ隠し持っていたとしてもおかしくはない。 「慎二、お前っ……!」 木刀を構え、士郎が走る。ぬめつく床に足を取られることも無く、走行はすぐに疾駆になった。迫り来る士郎に慎二が意識を向けた時にはもう遅い。木刀の一撃が慎二の肩口を捉えていた。 だが、 「あははははは! もう遅いよ衛宮、命令は下した。今頃扉をぶち壊して、蟲共が餌を求めて地上へ溢れ出る。全部お前らが悪いんだからな! お前らが僕に従わなかったから、何百人も死ぬんだよっ!」 痛みなど気にならないかのように、狂気じみた表情を浮かべて慎二は士郎を嘲笑する。 その態度に、思考が赤く染まった。 木刀を捨て、慎二の胸倉を掴んで壁へと叩きつける。 「今すぐ、その命令を撤回しろ慎二! 自分が何やってるかわかってるのか!?」 「はあ!? 僕は言っただろ、無駄な殺しはしたくないってさ。お前らが悪いんだよ、僕に平伏さなかったんだからね。それに、僕はあの蟲倉を閉ざしていた結界を解除しただけなんだよ。もう命令の撤回なんて出来ない。あはは、一生後悔し続けろよ、馬鹿な選択で何百人も見殺しにし――ガッ!?」 嫌な声を立てて、慎二が倒れる。 いつの間に近寄っていたのか。崩れ落ちる慎二へ指を突きつけている凛の魔術によるものだろう。 「殺した、のか……?」 「まさか。ここで慎二を殺す意味は無いわ。やったことの責任も取ってもらわないといけないしね……けど、まずいわね。慎二の言ったことが本当なら、あんなのが街中に解き放たれることになる……人死も問題だけど、魔術の存在が露見しかねないわよ」 「とにかく、急いで深山に戻ろう」 「ああ? 無駄なことはやめておきなさい。人間如きの足で急いだところでどうにもならないわよ。――私が行くわ」 「え?」 「お前らがとろとろ行ったところで、間に合わずにその屑の言うとおりになってしまうでしょ? 別に人間が何人死のうと私の知ったことじゃないけど、結果的にその屑の思い通りになるのは真っ平ごめんよ。デカイだけの虫けらなんて、何百匹いても相手じゃあないわ」 黒翼が羽撃たく。真紅の魔力が渦巻く。 「ま、数だけは多いみたいだから面倒そうではあるけど」 それだけ愚痴るかのように言うと、ランサーの姿がかき消える。直後聞こえる、遠慮の無い破壊音。振り返れば壁のそこかしこが工事用のスチールボールでも叩きつけられたかのように凹んでいた。ランサーが足場として利用したらしい。 「……大丈夫なのか、ランサーのヤツ」 「あれだけ大口叩いてるんだから大丈夫だとは思うけど……」 思わず顔を見合わせる。 そこに、 「士郎さん、私も行きます」 主張したのはセイバーだった。 「あの怪物がどれだけのスピードで動けるかわからないけど、本当に何百匹もいるんだったらランサー一人じゃ誰一人犠牲にしない、なんて難しいと思う。私が行けば結界を張って、怪物と私達だけを隔離出来ます……そして、令呪を使ってもらえれば今すぐ目的の場所まで跳べる」 「そ、そうなのか?」 無意識に手の甲に浮かんだ令呪を撫でる。サーヴァントへの命令権だとは聞いたが、そこまで大層なものとは知らなかった。 「確かに、令呪を用いれば遠隔地にいるサーヴァントを呼び寄せたり出来るとは聞くわ。つまり、その逆も然りってわけね」 「はい。士郎さん、お願いします。行かせてください!」 「……それは、こっちがお願いすることだ。頼むセイバー、街の人を守ってくれ――って、それで遠坂、これってどうやって使うんだ?」 「……左手に意識を固めて。目は瞑った方がいい。頭の中で自分の令呪の形をイメージして、するっと紐解くだけでいいわ。もちろん、解く時は命令をしながらよ」 言われた通り目を瞑る。剣じみた形の令呪の一画が解けるイメージ、命令は勿論、 「間桐邸へ……跳べ、セイバーっ!!」 手の甲に灼熱感、目を開けばセイバーの周囲が波紋のように揺らいでおり、ぎちという重い灼熱感が無くなると同時に大きく揺らいだ空間がセイバーを飲み込む。 「やった……のか?」 「たかだか数キロ程度問題ないはずよ。それより、わたし達もぼーっとしてるわけにはいかないわ」 「そ、そうですね。急いで戻らないと……」 ふわりと舞い上がるアーチャーの手を、凛が掴む。 「あのね、セイバーとランサーが揃ってれば十分でしょ。なんだかんだ言ってあなた達、爆撃機じみた能力なんだから。まして周りを気にせず戦っていいならなんの問題もないわ。わたし達がすべきことは、綺礼の行方を追うことよ」 そもそも慎二など眼中になかったのだ。目的は言峰と、ライダー。そして連れ去られたままのイリヤ。 「慎二は簀巻きにでもして適当な倉庫にでも放置するとして……とりあえずは上の探索か。正直望み薄な気がするけど」 「凛、リュードウジという地名に聞き覚えは?」 考えを纏めつつ、周りに方針を明らかにする為か。一人呟く凛の思考を遮ったのはバゼットの言葉だった。 「柳洞寺……? 柳洞寺って、あの山のてっぺんにある寺のこと?」 「どの山にあるのかは知りませんが……言峰がその少年に事が終わったらその寺へ来るようにと言っていたのです。もっとも、彼の敗北を見越してのフェイクかもしれませんが……」 「……確かにわたし達を撹乱させる為の誤情報と考えるのが妥当ね。柳洞寺なんて、何があるって場所でもないし……」 「――いや、あの寺は妙な力の流れの中心になっておる。根城に選んでもおかしくはない」 訝しげな凛の呟きに口を挟んだのはキャスターだ。大したことではないような口ぶりだが、その言葉は凛にとっては大事だった。 「何それ。わたしそんな話知らないわよ」 「なんだ小娘。汝、魔術師の癖に土地の力の流れも見分けられんのか」 「そんなわけないでしょ。冬木の地脈が集う――落ちた霊脈があるのはわたしの家がある場所よ。一つの土地に二つも霊地があるなんて、そんなの聞いたことない……って、そうか。それなら聖杯を降ろす儀式だって毎回うちで行われるはずなのに、そうじゃないってことは……」 本物ではないとは言え、仮にも聖杯の名を冠するほどの神秘を降ろそうというのだ。当然儀式を行う土地もまた、重要な要素の一つとなる。 「……行ってみましょ。少なくとも、闇雲に探し回るよりはマシだしね。バゼット、慎二をお願い。適当に縛って放っておいてくれればいいわ。どの道、その怪我じゃ戦うのは厳しいでしょ?」 「――そうですね。正直まだ片腕が無い感覚に、身体がついてこない。ですが」 失われた左腕を右手で押さえ、バゼットは様々な感情を綯い交ぜにした声を紡ぐ。 「ラックさえあれば、私は戦力足りうる。まだ予断を許す状況ではないでしょう。私もその寺へ向かいます。場所を教えてください」 「……いいわ」 声を聞けば、バゼットが何か思うところがあるのは簡単に察せられる。だが、バゼット級の達人ならそんな迷いがあろうと、他人の足を引っ張ることはないだろう。気にならないわけではないが、いくらなんでもこの期に及んでバゼットが言峰につくとは思えない。 「遠坂、急ごう。イリヤのことも心配だ」 木刀を拾い、士郎が先に立つ。イリヤの安否だけでも慎二を問い詰めておくべきだったかとも今は思うが、あんな状態だったことを考えると答えが返ってきたとは考えづらい。 「そうね。幸いアーチャー達は人一人くらい抱えて飛べるし、この際空から行きましょ」 車を拾っている時間すら惜しい。アーチャーとの飛行を凛は経験済みだし、葛木がキャスターの力を受けて飛ぶところも見ている。バーサーカーが士郎を抱えて飛べるかと言うのが問題だが、イリヤの令呪を受けてのこととはいえ三人抱えて飛行出来たところを見ると問題なさそうだ。 実際、尋ねてみると、 「うん、シロー一人くらい全然軽いよ」 などと答えが返ってくる。外見十歳未満の幼女に全然軽いなどと言われて微妙に複雑な気分だが、そんなことに拘っていられるほど悠長な状況ではない。 「じゃあ、すまないけど頼むな、バーサーカー……イリヤ、無事でいてくれよ」 士郎はあの冬の少女に、まだ何も出来ていないのだ。ただ無事を祈ることしか出来ない我が身がもどかしい。 早足に外へ出れば、いつの間にやらあれだけ空を埋め尽くしていた雲は消えていた。 「行くぞ宗一郎、マギウスウイング!」 「凛さん、しっかりつかまっていてください。レイジングハート、お願い!」 「振り落とされないでね、シロー!」 三者三様の言葉を共に飛ぶ者へと向け、少女サーヴァント達が星空へと舞い上がる。 |