「あ……あれ、にゃ!?」
「ちょっと、どうしたのよアーチャー!」
 突然アーチャーがバランスを崩す。
「わ、わかりませんけど、なんか急に魔法が弱く……」
 見れば、アーチャーの足元に発生し飛行を制御している桜色の羽根が小さくなっている。
「む……」
「わ、わわっ!?」
 僅かに遅れていた葛木とバーサーカーからも声があがった。凛が振り返ると、葛木の背にあった翼が形を失いページと化して崩れ、バーサーカーは翼を懸命に羽ばたかせているにも関わらず、高度を落としつつある。
「ライダーが仕掛けた罠か!?」
「いや、彼奴の気配は感じぬ。しかしまずいな。この状態では碌な身動きが取れん。宗一郎、ここは汝の体術に頼った方がよいな。小僧、小娘! 汝らも降りよ。そのざまではどうにもならんだろう」
「そ、そうね。アーチャー、あっちの参道に降りられる?」
「は、はいっ、降りる分には大丈夫です!」
 アーチャーが言って高度を落とした途端、
「あ、あれ?」
 落下が止まった。桜色の羽根も元の大きさを取り戻している。
「……どうなってるのよ」
「こ、今度はいきなり元に……」
「妾の術式もまた安定しておる……が、何にしても不安定だな。原因がわかるまで空戦は控えた方がよかろう」
 キャスターの言葉にそれぞれ首肯し、ゆっくりと山道に刻まれた参道へと降り立つ。
 山中のこと、周囲に明かりは無い。アーチャーの魔力光だけが寒々とした光景を柔らかく照らした。
「アーチャー、調子はどう?」
「はい、異常ないです。ね、レイジングハート」
 アーチャーの呼びかけに、愛杖がほのかに明滅して応える。
「しかし、ライダーじゃなければ一体誰が仕掛けたんだろうな。なあ遠坂、あの神父、そういう魔術とか使えるのか?」
「綺礼? 確かに魔術は使えるけど、サーヴァントの能力を減衰させるほどの結界が張れるとは思えないわ。それにしても地上に降りたら効果が無いって、仕掛けた理由がまったく見えてこないわね……対象設定出来なくて、爆撃を防ぐ為に上空に限定して結界を張ってるとか」
「まあ、考えていても答えが出るわけでなし、先を急ぐぞ。ナコト写本が何を企んでいるとも知れんからな。妾と宗一郎が先頭で行く、しんがりにも気を配れよ」
 言ってキャスターは肉球な掌で葛木を促す。勝手に決めてさっさと行ってしまうキャスターに文句の一つも言いたくなる凛ではあるが、彼女の言うことは実際もっともであり、同郷出身であるキャスターであればライダーが何か仕掛けてきても対応可能であろうから、葛木が先頭を行くのはこの上なく合理的なのは理解できる。少しむっとしながらも、
「じゃあバーサーカー、先に行ってもらえる? 私と士郎が次で、アーチャーが最後。警戒お願い」
 残りの面々へと指示を下した。
 アーチャーが教会地下と同じように魔弾を生成し、明かりを兼ねて先導させる。
(……なんか、薄気味悪いな)
 木刀を握りなおし、士郎は思考する。親友である一成が住む柳洞寺にはもう何度も訪れているが、いまだかつてこの参道にそんな印象を受けたことはない。むしろ清冽な空気が心地よかったと言うのに。
 今のこの地は教会近辺と同じだった。異様な気配は空気を粘性に変質させ、正常に呼吸出来ているのに窒息しそうだと錯覚しかねない。連れ去られたイリヤがこんな場所にいるのかと思うと、焦りと怒りで我武者羅に走り出したくなるが、自分の無力さは重々承知している。
(イリヤ……無事でいてくれよ)
 あの雪の少女に言わなければならない言葉が沢山あるのだ。決意を新たに、士郎はほんの気持ちだけ足を速め、前を歩く葛木を追った。
 無言の行軍が続く。
 暗い山道を抜ければ、今度は物々しい石段が姿を現す。ざらつき乾いた階段が、ふと気を抜けば汚物でも踏んだかのようにぬめつき、足を滑らせようとする。
 異界。
 何か、自分達がよく知るのとは別の法則が支配している。
 空気は腐り果て、吹き抜ける風はあらゆるものを停滞させる。
 そんな異常が、常識と取って代わろうとしている。
 それは、先頭を進むキャスターには至極見慣れた世界だった。
 人の世界を犯す悪意。許されざる邪悪。キャスターは、そういうものと戦う為にこそ生み出されたのだ。
「皆、気をつけよ。彼奴は確実にこの近くに潜んでおる」
「潜む、とは失礼な物言いね。――アル・アジフ」
 鈴を転がすような可憐な声が、悪意そのものの言葉を紡いだ。
 山門付近に蟠る闇から滲み出るように、白い、白い腕が、白皙の美貌が姿を現す。
 闇を固めたような漆黒のドレスを身に纏う、キャスターを鏡写しにしたようなその少女は、
「ナコト……写本!」
 マスターである桜から契約を打ち切られ、最早消えゆくしかないはずのライダーその人だった。その姿を認めた瞬間に、冷静だと思っていた心が沸騰する。
「イリヤはどこだ、ライダーっ!」
 叫び、木刀を構えながら前に出る士郎に、凛は思わず頭を抱えそうになるがそんな場合ではない。舌打ち一つ、コートの内ポケットに手を差し入れつつ、士郎をすぐにフォロー出来るようにやはり足を踏み出す。
 そんな士郎を虫けらでも見るかのような目で眺めるライダーの表情にあるのは嘲笑だけだった。
「さあ? そろそろ心臓だけになっているかもしれませんわね」
 わざとらしい丁寧な口調。
「な……!」
「落ち着きなさい、士郎。アンタが突っかかっていってもアイツに勝てるわけ無いでしょ。それに、何処も何もここまで来たら探す場所は大して無いわ。だから今考えるべきは――どうやって、ライダーを突破するかよ」
「決まっておる。押し通るまでだ」
 凛の言葉に応えたのはキャスターだった。
「大きな口を叩くのね、アル・アジフ。魔を断つ剣は無く、大十字九郎もいない、二千年も生きていない小娘一人で何が出来るというの?」
「それは貴様も同じであろう、ナコト写本。いや、既にマスターを失っている貴様こそ最早何も出来ないはずだ……何を企んでおる」
 ライダーの言葉に応じながらも、キャスターの胸に奇妙な不安が湧き上がる。自分達魔導書の精霊は単独で長時間力を振るうことは出来ない。それは太古の魔導書であるナコト写本、ライダーとて同じことだ。だと言うのに、未だライダーからは強大な魔力を確かに感じる。後ろに続く凛もまた、それを感じ取っていた。
「……イリヤスフィールの城で会った時と変わらない……いえ、あの時以上の魔力を感じる。やっぱり、綺礼に新たなマスターを与えられてるのね」
 だが、凛は己の呟きに僅かに首を傾げる。
 サーヴァントの能力は、マスターの能力に左右される。例えばセイバーのマスターが士郎から凛に変われば、彼女の能力は総じて1ランクほど上昇するだろう。マスターの能力はそれほど重要なものだ。桜はロクな魔術を行使できず魔術師としては三流もいいところだが、ことマスター適性と言う点においては凛に匹敵する。
 その桜と契約していた時以上の能力を感じると言うことは、ライダーの現マスターは桜と同等以上の素質を持つことになる――ただいるだけで怪異を招きかねないほどの鬼才である桜と同等以上。そんな才能を持つ魔術師を、いかに言峰が監督役だからと言っておいそれと用意できるものだろうか。
(……そもそも今になってマスターにさせるくらいなら、最初からサーヴァントを召喚させればそれで済むはずよね。一体、どんな思惑があるっていうのよ……)
「何にしても、貴様相手に問答は無用――押し通らせてもらうぞ!」
 キャスターの言葉に葛木が拳を固める。凛もまた、その声に内心の疑念を振り払う。言峰の思惑はわからないが、実際この場にいるのはライダーだけ。対してこちらはサーヴァントが三騎だ。士郎と凛がサーヴァント相手では戦力にならないが、数度の戦闘からライダーが三対一をしのげるほど強大な相手で無いことはわかっている。ギルガメッシュやアサシンが姿を見せないのが不安ではあるが、言峰が側に控えさせている可能性は高い。
 構えを取った葛木に対し、ライダーは悠然と髪をかきあげ、呟く。
「――行きなさい」
 その手には、いつ握られたのか黒曜石を切り出したかのような漆黒が握られていた。鋭く振り下ろされたそれは先端から青黒い煙を噴出する。
「目くらまし!?」
「マズイ、ティンダロスの猟犬を召喚する気かッ!? 小僧ら、気をしっかり保て、狂気に飲まれるなよ!」
 凛の叫びを否定するキャスターの声が終わるのを待たず、ソレは現れた。
 爆発的に広がる刺激臭を伴って、青黒い煙が実体を構築する。
「ッ!?」
 異形。
 不気味だの、醜悪だのといった言葉で済ませられる代物ではなかった。
 間桐邸の地下で見た蟲は巨大で醜悪で奇怪ではあったが、まだかろうじてこの世界の法則に従った存在だった。邪悪であり、悪意を体現したようではあったが、異様な生物として理解出来る存在だった。
 全身から青い膿のように粘ついた液体を垂れ流し、太く曲がりくねって鋭く伸びた注射針のような舌を露わにするその姿の、なんとおぞましいことか。常人ならば見るだけで精神が犯され、理性は罅割れ、常識が引き裂かれる。
「く……このッ!」
 けれど、キャスターは元よりそういったモノと闘う為に生み出されたモノ。そして並び立つ凛と士郎もまた魔術師、理外に立つ者。魂自体が困惑するような感覚はあるが、それを抑えこむことは十分可能だ。既に握り締めていた宝石を凛は咄嗟に投擲した。宝石の属性に染まった魔力が解き放たれ、炎の塊が空中を奔る。
 激突、灼熱が異形を飲み込み石段を焦がすが、この世界の常識の外に在る異形は苦痛を感じることがないのか。さして怯む様子もなく、身を覆う青色の膿から更なる悪臭を撒き散らしながら、異形――時の彼方に棲まう獰猛なる狩人、ティンダロスの猟犬――は凛をその顎に捕らえんとする。
「遠坂!」
 それを防いだのは隣に立つ士郎だ。強化した木刀を猟犬の顔面らしき場所に叩きつける。
「!?」
 伝わる感触に、士郎は思わず顔を顰めた。明らかに形を持つモノだと言うのに、手に伝わる感触はまるで体験したことのないものだった。例えようもないが、あえて言うのならば水飴でも叩けばこんな感触だろうか。
「なにこれ、気持ち悪い!」
 計らずとも猟犬と力比べするような形になった士郎の前で、バーサーカーも幼い顔を嫌悪に歪めていた。バーサーカーの名の通り、彼女の精神は尋常のものではない。異形の怪異を見ても出てくる感想はその程度のものらしい。召喚された猟犬は二匹、一匹は真っ直ぐに凛を狙い、もう一匹はバーサーカーへと狙いを定めている。無視された形になった葛木だが、むしろ好機と取ったか石段を駆け上るのが士郎の視界の隅に入った。
「く……コイツ強いぞ……!」
 押さえつけてる腕が早くも痺れ始めている。力比べ以上に、猟犬を直視するということ自体が徐々にではあるが精神を蝕んでいた。そんな士郎を援護しようと試みる凛だが、いかんせん凛の攻性魔術は派手すぎる。こんな至近距離からピンポイントで猟犬だけ打ち倒すような術はない。だがアーチャーの精密射撃ならば、
「アーチャー! 士郎の援護を!」
 呼びかけるも、応えはない。
 不言実行――ではなかった。アーチャーとのリンクから、伝わってくるのは恐怖、そして混乱だろうか。
「っ、そりゃアーチャーは小学生の女の子だものね、あんな化け物見る機会はなかったか」
 いかにアーチャーが年に見合わぬ精神力を備え、大きな戦いをくぐり抜けたとは言え、十年近く日常に生きてきた少女なのだ。理屈や理性で克服できる恐怖ならば、彼女は持ち前の強靭にして高潔な意志で即座にそれをねじ伏せただろうが、この怪異とは決定的に相性が悪い。これは全てを否定する悪意だ。世界とは悪意そのもので、宇宙の法則は邪悪に支配されていると言う生きた証拠だ。
「なら、私がやるしかないか」
 手持ちの宝石の中から大振りの一つを握り、魔術を奔らせる。これからの行動に顔を顰めながら、術式は即座に完成した。
 そして起こった目の前の出来事に、士郎は状況を一瞬忘れ思わず目を丸くする。
 頭に叩き込んだ木刀を押し返し士郎に喰らいつかんとしていた猟犬が、吹っ飛んだ・・・・・。まるで冗談のように、なんの前触れもなく、綺麗見事にすっ飛んでいた。その様子たるや、ほとんどサッカーボールだ。
 青色の膿を石段に擦り付けながら、猟犬の姿は藪の中へ消えていく。
「ちっ、やっぱりあんなの直接触るもんじゃないわね……!」
 忌々しげに吐き捨てる凛の手には猟犬の表皮を覆う膿が付着していた。つまりは、
「……今アレを吹っ飛ばしたのって、遠坂なのか」
「? ええ、そうよ。あの状況で士郎を巻き込まないで済む器用な魔術なんて知らないし。となると、殴るしかないでしょ……っ」
 じくじくと手が痛む。見るからに有害そうだったが、やはり猟犬を覆う膿は真っ当な生物にとって毒、あるいはそれに準じる物であるらしい。
「遠坂っ、その手……!」
「大丈夫よ、すぐさま腐って落ちるほどのもんでもないみたいだし。ま……長々と時間をかけるわけにもいかないわ。と言っても、あれどう見ても普通の生き物じゃないわよね……殴って倒せるといいけど」
「なら、遠坂は後ろで援護を……!」
「人の話聞きなさいよ。私の魔術じゃどうやっても士郎を巻き込んじゃうのよ。殴り倒すしかないでしょ」
「……いえ、私がやります!」
 なおも反論しようと口を開いた士郎の言葉を遮ったのは、凛ではなくアーチャーの声だ。
 振り向けば、アーチャーが石段を駆け上ってくる。幼い表情は青褪め、硬く強張っているが、瞳に宿る強い意志の光は少し揺れてはいるものの健在だった。
「アーチャー……大丈夫なの?」
「はい、さっきはごめんなさい、凛さん。もう、大丈夫です……戦えます」
 心臓はいつになく早い鼓動を刻んでいる。猟犬を目にした瞬間の魂の戦慄が、意志を砕こうとする、挫こうとする。気持ち悪いのも勿論あるが、あの衝撃はそんな単純なものに起因するのではない。
 だが、
「フェイトちゃんが戦ってる。レイジングハートがいてくれる……それに、イリヤさんを助けなきゃいけないもん。脅えて、震えてるわけにはいかない!」
 幼い声が紡ぐ叫びは、己への激励だ。己が愛杖を振るい、アーチャーは高らかに宣言する。
「だから、お二人は行ってください。イリヤさんを助けに!」
「……アーチャー」
「けど、そういうわけには……」
「あ、逃げるなーっ!」
 士郎と凛の逡巡をバーサーカーの叫びが打ち切る。見ればバーサーカーに襲い掛かっていた猟犬が全身から白煙を上げ、山門の方へ走り去ろうとしていた。
「むー、アイツ嫌い! 変な臭いだし、つまんない!」
「いや、そういうこと言ってる場合じゃ……って、マズイぞ。あの怪物、逃げたんじゃなくてライダーに呼び戻されたんじゃないか!?」
 山門付近で戦っていたはずの葛木の姿も既に無い。風に乗って爆音が境内の方から聞こえてきた。
「じゃあ、さっき吹っ飛ばしたヤツもそっちに……? だとすると、葛木が優勢ってことね。私達も行きましょ! 一気に畳み掛けるチャンスよ。アーチャー、この際もう四の五の言わない。信頼してるわ」
「……はいっ」
 コートを翻し、駆け出す凛に続いて――いや、並んでアーチャーもまた山門へと走り出す。
「バーサーカー、俺たちも行くぞ!」
「うんっ、あんな変なのさっさとやっつけて、イリヤと会いたいもん! それでセイバーとかアーチャーとか、お姉さまと遊ぶの!」
 大分不穏な言葉が飛び出した気がするが、悠長に突っ込んでいる暇は無い。木刀を握り直し、士郎もまたバーサーカーと共に残りの石段を駆け抜けた。
 広い境内は既に戦場と化している。猟犬を盾にしたライダーが放つ重力塊に、近接戦を基本とする葛木は近づけないでいるようだ。今のところ迫る黒い球体を殴り落とし、射撃をもって応戦している凛とアーチャーのサポートに回る形になっている。
「もう降参してください、ライダーさん! どうして、そうまでして戦い続けるんですか!?」
 凛とアーチャーの二人を相手にしては分が悪いのか、徐々に戦いの均衡は崩れつつある。圧倒的な数の魔弾で弾幕を生成するバーサーカーが加われば、その差は決定的なものになるだろう。
 アーチャーの降伏勧告に、ライダーは嘲りの嗤いで応える。
「囀るな、小娘が。お前如きにわかるはずがない――永遠にも等しい無限螺旋を生きた私の渇望が」
「話してくれなきゃ、わかるわけないよっ」
 叫び、アーチャーは愛杖を構え直す。両足で大地を強く踏み締め、赤い宝玉で飾られた先端をライダーへと真っ直ぐ向ける。
「話してくれれば――きっと、力になれる!」
 声と共に紡ぐ術式は砲撃。環状魔法陣がレイジングハートを幾つも取り囲み、魔力を回す。高まり、可視領域に到るアーチャーの魔力光は桜色だ。暗い境内を春の盛りかのように鮮やかな色に染め上げ、想いを伝える為の力を組み上げる。
「ディバイン――」
 一際巨大な光球が膨れ上がった――だが、遅い。
 溜めの時間弾幕は必然的に薄くなる。その隙をライダーが見逃すはずは無かった。長めにアレンジした術式が生み出す黒い魔弾の数は今までの数倍にもなる。
「潰れろっ!」
 吐き捨てるような言葉と同時に、重力塊がアーチャー達を圧殺せんと空を走る。
 だが、闇夜より冥い魔弾を、薙ぎ払う紅蓮があった。
 害なす魔杖レーヴァテインの名を持つ術式が石畳を沸騰させ、ライダーの盾となった猟犬どもを巻き込み周囲の空間ごと焼滅させる。かろうじて炎剣の隙間を掻い潜った魔弾が無いでは無かったが、
「おおおおおおおっ!」
 それもまた、バーサーカーに続いてライダーと凛達の間に割って入った士郎の手によって粉砕される。木刀は相打ちとなり砕け散ったが、その甲斐あって魔弾は一撃たりともアーチャー達に届くことは無い。
「――バスター……っ!?」
 レイジングハートの膨れ上がった光球から魔力が迸り――ライダーから大きく外れた、境内の地面を抉る。
 本来ならばライダーを直撃し、一撃で必倒したであろう光の柱は、石畳を割り砕き、地面へ大きな傷跡を残すだけに終わった。精密射撃を得意とするアーチャーがこの近距離での一撃を外すはずがない。だと言うのに狙いを外したのは、なんらかの外的要因があったからに他ならなかった。
 それは、
「や、やだっ、な、なに……!?」
「な、なんだこやつは! ショゴス、いや……!?」
 アーチャーの悲鳴と、キャスターの叫びが響く。
 アーチャーの少女らしい細い肢体に、名状しがたいものが纏わりついていた。それはアーチャーの足に取り付き、全身を絡め取ろうとおぞましく蠢いている。
 むき出しの肌に触れる冷たい粘膜の感触に、アーチャーは口から漏れ出る悲鳴を隠し切れない。
「……ふ、ふふ、あはははっ、いいわアサシン、そのまま絞め殺しなさい!」
「アサシンですって!?」
 ライダーが下した命令に、驚愕の声をあげたのは凛だ。
 アサシン――すなわち暗殺者のサーヴァント。幼い少女ばかりが召喚されたこの異常な聖杯戦争において、いまだ姿を現さぬ最後の一騎。
 だが目の前にいるのは、アーチャーの身体を絡め取っているのは、
「こ、こんな肉塊みたいなバケモノがサーヴァントだってのか!?」
 猟犬どもとさして変わらぬ――いや、そのおぞましさたるやむしろ上回っているかもしれない。
 一言で言えば、それは士郎の言葉通り肉塊だった。人間を裏返しにしたら、あるいはこんな姿になるのかもしれない。内腑と臓物で人型を作り、考えられうるあらゆる悪意で細工したかのような姿。だが、士郎と凛に備わったマスターとしての感覚が、目の前にある肉塊が紛れもなくサーヴァントであると告げていた。
「あ……か、はっ……」
 蛇の群体じみたアサシンの蝕腕がアーチャーの細く白い首に巻きつく。呼吸や血流を阻害するというレベルではなく、その力は間違いなく頚椎ごとへし折ろうという意図の上で動いていた。
 アサシンを引き剥がそうにも、ライダーと猟犬達がそれに専念することを許すはずもなく、かと言ってアサシンだけを狙い撃ちするスキルなど、この場において当のアーチャー以外誰も持ちえていない。
 防護服バリアジャケットが覆ってない部位以外も魔力による防御フィールドがあるからなんとか耐えているが、そうでないなら少女の首など容易く折られていたはずだ。だがその防御もか弱い抵抗にしか過ぎない。嫌悪感と苦しさで術式を紡ぐ思考が乱される。高町なのはアーチャーに抵抗の手段はない。だが、弓兵の英霊アーチャーはその現実を覆す。
《Divine shooter》
 アーチャーが朦朧とし始めた状態でも手離さなかった愛杖、レイジングハートが術式を起動する。そう、彼女は単独で成立する英霊ではないのだ。元より英雄と彼らが持つ武装は分けて語れぬもの。人機一体こそが、アーチャーの強さの源だ。なのはだけでも、レイジングハート機体だけでも、アーチャーとしては成り立たない。
 一撃で成人男性すらも昏倒させる威力の魔弾が一度に四発、アーチャーを押し倒す異形へと降り注いだ。
『ギャァァァァ!!』
 耳をつんざき、異形の悲鳴が響く。
《Flash move》
 硬質な声が紡ぐ術式が、アーチャーを自由な空へと導いた。
《Master, are you OK?》
「……う、うんっ、大丈夫! ありがとう、レイジングハート」
 相棒へと応じながら、アーチャーは高度を落とし凛の側へ。ディバインシューターを受けのたうつ姿は直視しがたいが、そうも言っていられない。嫌悪感をなんとか押し殺し、アサシンの様子を観察する。
「生憎だったな、ナコト写本。汝の切り札は不発に終わったぞ。明るみに出た暗殺者など、最早脅威ではない」
「切り札? 馬鹿なことを。アサシンの奇襲など当てにしていないわ。まあ、一人くらいは殺せるかと思ったけれど……」
 ライダーの声に揺らぎはない。強がりではなく、本気で言っているのが窺える口調だ。
「遺憾だわ。この手を使わざるをえないのだから」
 吐き捨てるように呟き、ライダーは漆黒の手袋に包まれた片手を天に掲げる。意味ありげな言葉に、咄嗟に身構え防御や回避の術式を組むキャスター達の前で、ライダーが弾け飛んだ・・・・・
「な……自爆した!?」
「いや、これは……術衣形態マギウススタイル!?」
 紙片が渦となって吹き荒ぶ。ライダーが腕を掲げた天へと舞い上がり、降りる先はのたうつアサシンの身体だ。紙片はアサシンのてらてらとした生々しい肌を覆い、黒い衣装を形作っていく。肉塊を拘束具でぎちぎちに締め上げたような不気味な姿だが、内蔵が剥き出しであるかのような状態が隠された分、衝撃度はむしろ減っているかもしれない。
「さっきの、ちょっと痛かった」
 一度も聞いたことの無い声。少し舌っ足らずな感もある、少女の声だ――いや、声と言うのは少し違う。その声は、音として耳から入ってくるのではなく、直接頭に飛び込んでくるもの、むしろ思念波に近い。
「ねえライダー、コイツらをやっつければ、聖杯っていうのはあたし達のものなんだよね」
「そうよ、アサシン。貴女の願いは間もなく叶う――愛しい人と再会したいという願いは、ね」
「そう――なら、やっちゃうね」
 響く声がアサシンのものであることに驚く間もなく、瞬間、黒い魔弾がアサシンを取り囲んだ。
「なっ!?」
 詠唱も、動作も無い。まさに一瞬。その間に生み出された魔弾の数は百に届こうかと言うほど。
「小僧、小娘っ、宗一郎の後ろへ! アーチャー、汝も手を貸せ、防禦結界を張るぞ!」
「えーっと、ン・カイの闇って言うんだっけ? ――潰れちゃえ」
 早口に叫んだキャスターの声と、アサシンの無邪気な呟きはほぼ同時。幸いにも魔弾が殺到するよりアーチャーとキャスター、二人が張る防御魔術の起動の方が早かった。煌めく五芒星と桜色の魔法陣が雪崩のように押し寄せる漆黒の重力塊を押し止める。
 だが、
「くっ……!」
「あうぅ……」
 二人の口から苦悶の声が漏れた。予想以上の衝撃に防御魔術は早くも悲鳴を上げている。術式の密度、構築速度、勿論本来の術者とは比べるまでも無いが、共に桜がマスターであった時以上だ。
(ただの奉仕種族ではないな、こやつ……! ナコト写本をこうまで使うとは、一体……!?)
「キャスター、アーチャー! くそっ、何か出来ることはないのか……!」
 ただ守られるだけの己が身に歯噛みする士郎だが、実際どうすることも出来ない。得物であった木刀は粉砕され、徒手空拳では身を呈して盾になることくらいしか出来ないが、サーヴァント同士の戦闘において生身の人間の盾など無いも同然だ。とは言え、士郎が取り立てて無力と言うわけではない。若き天才である凛をしても、サーヴァント同士の戦闘に首を突っ込むのは自殺行為なのだから。
 確かに、敵にしても味方にしても近接戦で卓越した技量を誇るようなサーヴァントではない為、凛ならなんとか戦線の一端を担えるのだが、生憎威力や速度はともかく魔力量が圧倒的に違いすぎる。凛がバケツなら、少女サーヴァント達は風呂釜、下手をすればプールだ。
 ならば今凛がすべきことは何か。考えるまでも無く答えは決まっている。
「士郎、綺礼を探すわよ! アサシンを直接打倒しなくても、マスターである綺礼を倒せば、契約しているサーヴァントは現界していられなくなるわ。私達がここにいても出来ることは無い……むしろ足手纏いよ」
「……そうだな、ここで悔しがっててもどうにもならない。俺達は、俺達に出来ることをしないとな」
 どんなに考えても今の士郎と凛に出来ることと言えばそれくらいのものだ。ギルガメッシュという一番のジョーカーが姿を現していない以上、サーヴァントと離れるのは危険であるとも考えられるが、だからと言ってこの場に残っても自力でアサシンの攻撃を防げないのではアーチャー達に対する足枷にしかならない。
 踵を返し走り出した士郎達が十分な距離を取った頃を見計らい、
「アーチャー、距離を取るぞ! バーサーカー、援護せよ!」
 キャスターの号令が下った。幼く凛々しい掛け声に従い、防御魔術の維持をやめて飛び退る葛木とアーチャーを追撃する重力塊は、バーサーカーが振り回す炎剣の術式によって尽く切り払われる。
「あれ……なかなかしぶといんだね。もう潰れたかと思ったのに」
 レーヴァテインが残す過剰な熱量に揺らぐ夜の闇の中、アサシンの声が響いた。害虫でも叩き潰し損ねたかのような、あっさりとした調子に悲痛な訴えをアーチャーが叫ぶ。
「あ、アサシンさん! ライダーさんも! もう、やめてっ。お話を聞かせて! 目的があるなら、話してよっ。そうでなきゃ、私達何も出来ないよ……!」
「……黙れと言っただろう、小娘。忌々しい偽善者め、それ以上口を開くな――耳が腐るわ」
「っ!」
 地獄の底で責め苦に苦しむ亡者であろうとも、これほどの怨嗟を口にはしまい。常人であればその声を聞いただけで発狂し死に到りかねないほどのライダーの言葉に、思わず声に詰まるアーチャーだが、彼女のお人よしっぷりも筋金入りだ。
「黙らないっ! 教えて、何が望みなの!? 私達に出来ることなら、きっと協力するから!」
「――出来ることなどないわ。そうね、速やかに死んでくれるかしら? サーヴァントが死ななければ、聖杯は機能しないのだものね。それが、私の望みを叶える唯一の手段……大人しく死んでくれるなら、戦うのをやめてもいいわよ」
「ええっ、そ、そんなこと……」
「出来るはず無い? そう、それが当然。結局は自分可愛さに他者の願いを踏みにじる――なんて人間らしいのかしらね。その偽善、本当に吐き気がするわ」
「……違う。それは違うよ、ライダーさん! 誰かを傷つけなければ叶えられない願いなんて、そんなの! どんなに強い想いでも、どんなに切ない願いでも、誰かを傷つけなきゃ叶えられないのなら――叶えちゃダメだよ!」
「そんなの……綺麗事だよ」
 アーチャーの切なる叫びに、小さく応えたのはアサシンだ。
「叶えちゃダメ、なんて誰が決めたの? あなた? 私は郁紀だけいればいい。他には何もいらない、他の誰かなんてどうでもいい――邪魔しないで」
 これ以上議論は無用と、淡々と紡がれる幼い声が告げていた。
 再び展開した重力塊の弾幕が、津波の如く何もかもを飲み込まんと高く聳え立つ。

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