柳洞寺境内の奥、本堂の裏手には大きな池があった。特に手を入れることが無くとも濁らず澱まず、龍神が棲まうと言われればさもありなん、と納得してしまいそうなほど、神聖な趣すらある。
 その静謐な空気が、ただ一人の男が存在するだけで、侵されていた。 何をするでもなく、池を眺める男に異常は無い。ただ圧倒的な重苦しい存在感があり、それだけで周囲の空気を異様なものに書き換えているのだった。
「――言峰、綺礼……!」
「案外早かったな。衛宮士郎」
 振り向き、愉悦をにじませ言葉を紡ぐ言峰の眉が、意外なものを見たとでも言うかのように釣りあがる。
「ほう、お前も来たか――我が教え子、遠坂凛よ」
 親しげな呼びかけに、凛はただ鋭い視線をもって応じる。その態度に言峰は陰鬱な顔をますます愉悦に歪めた。
「イリヤはどこだ、言峰っ!」
「ふむ。イリヤスフィールを救う為、今まで過ごしてきた街を見捨てて来たか。何故それほどイリヤスフィールに拘る、衛宮士郎」
「……お前にそんなこと話す必要は無いし、街を見捨ててもいない。セイバーとランサーが戦ってくれてる。俺は、俺に出来ることをしに来ただけだ――お前こそ答えろ、イリヤはどこだ」
 途中手に入れた警策に力を込め構え直す。
「安心しろ、器を壊しては聖杯も降りん。イリヤスフィールは無事だ。後ろにいるのが見えないかね」
 言峰が僅かに身体を横にずらすと、その長身に隠されていた池の様子が士郎達の視界に入った。サーヴァント達の激戦の余波がここまで響いているのか、波紋で揺らぐ水面の上、中ほどに浮かんだ異物――桃色の肉塊の上に、見慣れ始めた銀髪が見える。 「なら――話は簡単だ。お前をぶっ倒して、イリヤを連れ帰る」
「成る程、実に単純な話だ」
 得物を構える士郎に対し、言峰はいまだ自然体だ。
「だが、そういうわけにもいかん。此度の聖杯戦争でまともな聖杯が降りるか怪しいものだが、それでも私の願いを叶える為に、イリヤスフィールは手離せんよ」
「願い……? 聖杯にかけるほどの願いが、アンタにあるって言うの、綺礼」
 士郎に向けた言葉だったが、反応したのは凛だった。言峰の人となりを士郎よりも遥かによく知っている――とは言え、実際どこまで理解しているかと問われれば実情は怪しいものだが――凛ゆえに、その言葉はとても信じられるものではない。
「なに、さしたる願いではない。だが聖杯戦争このような機会でもなければ叶えられないのは確かなのでな。乗じたまでだよ、凛。お前も薄々察していたからこそ、教会を訪れた時にサーヴァントを見せもしなかったのだろう」
「……ふん。やりかねない、とは思ってたけどまさか本当にこんな反則してるとはね。もうちょっと筋を通すヤツだと思ってたわ。やっぱり初めっから私たちを騙してたってわけね」
「――初め、から?」
 凛の言葉がまったく予想外のものであったかのように、言峰は重苦しい顔を曇らせた。
「……なによ。今の口ぶりだと、わたしたちが教会に行った時にはもうやる気だったんでしょう」
「――成る程成る程。凛、お前の認識する"初めから"は、そこなのだな」
 愉悦がにじむ、どころの話ではない。紡がれる声は心底から愉快そうな響きを帯びていた。その口ぶりだけで、凛は己が賢明さが為に、即座に正しい答えを導き出してしまった。彼女は言峰綺礼という人物に心を許したことはなかったが、それでも兄弟子として、師である父亡き後は師として、ある程度の敬意をもって接してきたつもりだった。有体に言えば、気に食わないが認めてはいたのだ。
「……そう、アンタの"初めから"はそこじゃないのね。――殺したのは、アンタだったんだ」
「当然だろう。恩師であったからな。騙し討ちは容易かった」
 顔面を蒼白にし、しかしただ事実だけを問う――と言うよりも、確認する凛の言葉に対する言峰の言葉もまた、簡潔なものだった。
 ぎり、と凛の奥歯が嫌な音を立てて軋む。殺し、殺されるは聖杯戦争などに参加すれば当然のこと。凛とて年若いとは言え魔術師、そんなことはとっくに理解している。それでも仮にもっと絶望的な状況に置かれていたのなら、感情に任せて思わず言峰を罵倒したかもしれないが、凛は口を閉ざしたままだった。
「もっとも、そうまでしても結局のところ私は衛宮切嗣に敗れたのだがな――そして今、私が引き起こした大災害から衛宮切嗣によって救われた衛宮士郎お前が私と相対する、因果なものだ」
「な……待て、お前今、なんて言った……!?」
 聞き流すには重要すぎる言葉がいくつも言峰の口から飛び出してくる。問いただす士郎には応えず、口元を歪めたまま言峰は更に言葉を重ねた。
「ところで衛宮士郎、幼馴染達と再会した気分はどうだったかね?」
「なん、だと――?」
「幼馴染だ、兄弟と言ってもいい。無論血肉の繋がりは無いが……共にあの地獄から帰ったのだ、その絆は兄弟のそれと比べても遜色なかろう」
「――だから、何を言ってるんだ、言峰っ!」
「察しが悪いな、衛宮士郎――それとも、とぼけているのかね。教会の地下を見たのだろう? 一人だけ助かった・・・・・・・・お前以外の生き残りを」
 脳内に光景が蘇る。狂った芸術家が絵具をぶち撒けたかのような混在した色彩の中、教会地下には確かに死体じみた人体が無造作に積み上げられていた。声にならない悲鳴を上げ続ける彼らが、
「士郎! これ以上綺礼の長話に付き合う必要はないわ!」
 己が受けた衝撃を噛み殺し、肩を掴んで凛が引き止めてくれたにも関わらず、士郎は呆然と疑問を口にしてしまった。
「あの、大災害の……生き、残り?」
 ならばあの地下は、白い病室の続きだ。
 自分と同じく、家も両親も失った子供たち。引き取り手が見つかるまでと、丘の上の教会にある孤児院に預けられたと聞いていたが、切嗣に引き取られた士郎が知るのはそこまでだ。一人引き取られた身で、引き取り手のいない子供たちに会うのは躊躇われ、いつか町中で偶然会ったのなら、きっとその時はもう自分達を襲った不幸のことなんて吹っ切って当たり前のように話せるだろう――そう思っていて、だがこの狭い町でその再会が無いことに何故疑問を抱かなかったのか。
「その通りだ。さて重ねて聞くが衛宮士郎、炎の中から衛宮切嗣によって拾われ、そして奴に引き取られたお前が――十年ぶりに兄弟と再会したのはどんな気分かね」
「――そこまでよ、綺礼」
 愉悦に弾む言峰の言葉に返事を寄越したのは士郎ではなく、冷え切った凛の声だった。
 かざされた左手のコートの袖口から燐光が漏れる。
「十年間何があったかなんて、今は関係ない。アンタはアサシンのマスターで、わたしと士郎もまたサーヴァントのマスター、ならば今やるべきことは一つしかないわ」
「ふむ。流石だな、父の仇を前に冷静さをよく保つものだ」
 挑発じみた言葉に、奥歯が嫌な音を立てるが、それだけだ。
「――わたしは士郎とは違うわ。魔術師であれば、殺し殺されることくらい当然だってこと、理解してるもの。遠坂時臣父さんはマスターとして戦い、敵対するマスターに殺された。それだけのことよ」
 押し殺した口調。激昂していないが、冷静でも無いといった程度の心境で、事実復讐の念に駆られ今すぐ飛び掛ることもなく、言峰の様子を観察して戦術を練るだけの余裕が凛にはあった。
(……いつもの僧衣とは違う。あれ、聖堂教会の標準装備じゃない――綺礼の功夫を考えたらガンド程度牽制にもならない……士郎が持ってるのがせめて真剣ならね。もともと素人同然の士郎に綺礼の相手は荷が重いけど……そうも言ってられないか)
「士郎、しっかりしなさい。貴方がどう思おうと、それは貴方の言葉・・・・・よ、彼らの言葉じゃないわ。貴方が何をどう思おうと、それは貴方が決着をつけるべき問題よ。彼らに押し付けるべきじゃない」
 士郎に向ける言葉は、凛自身を傷つける刃でもあった。自分が出来もしなかったことを、士郎には押し付けている。自分が苦しんだ分誰かが楽になれるなんて、押し付けたわけでこそ無いが、そんな偽善を抱いて生きてきた身で言えることではない。だが、感情を殺して凛は言葉を紡ぐ。真に相手を思うのなら、自己完結してはいけないのだと。
「成る程。だが凛、お前もまた選ばれた側ゆえに、そのような言葉を口に出来るのではないか。お前の妹は、事実現状を不満に思い、聖杯に願って選択自体を無かったことにしようとしていたぞ。もっとも、今こうしてお前がここに来ていると言うことは、その切なる願いすら踏みにじってやって来た、と言うことか」
 十年以上のつきあいは伊達ではない。言峰は的確に凛の痛い場所を突いてくる。
 だが、桜との決着はつけてきた。言峰の言葉が今更凛を抉ることは無い。
「――ええ。どんな願いだろうと、今までを勝手に無かったことにされるなんて、そんなのは願い下げよ。やり直しなんて利かないから、皆今を生きてるんじゃない。駄目だったからやり直します、嫌になったからやり直します――そんなのが許されるのは神様だけよ」
「聖杯を手にすれば、その神の奇跡が我が物になる。万物全て、望むままだ――そう、例えば十年前の出来事をやり直せるとしたらどうだ、衛宮士郎? お前だけが生き残るのではない。誰もが生き残る結果を出せる」
「――俺は」

『わたし、聖杯にお願いするんです。こんな酷い世界、なかったことにしてくださいって。聖杯ならそれが出来るって』

 桜がそう言って嗤った時に開きかけた心の皹が、割れ爆ぜる。零れ落ちるのは心にこびり付いた赤い風景と、つい先程焼き付いた黒い人工の地獄だ。一も二も無く飛びつくべきではないかと、心の何処かが叫んでいる。自分一人がのうのうと生き延び、知らなかったとは言え他の子供達は死体同然で放置されていたのだ。やり直すべきだ、いっそ十年以上戻って桜の願いも共に叶えてやればよい。そんな誘惑が無いと言えば、それはきっと嘘だ。
 だが、その悲鳴にも似た心の叫びを是としたことは、現実を受け止めてからは一度としてなかった。確かに迷い、揺れた。向かい合うことをやめて、考えること自体を放棄してきた。
 帰らなくていい、戻らなくていい、なんて思わなかった。焼け野原に行った。何もなくなった場所に行って、有りもしない玄関を開けて、誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
 それでも、
「俺は……」
 過去は変えられない、だから未来を守るんだと言ったセイバーの顔が浮かぶ。
 稚拙な説得に応えて、ただいまと言ってくれた桜の泣き笑いが浮かぶ。
 父の温もりを自分が奪ってしまった、雪の妖精じみた儚げな少女の無垢な笑顔が浮かぶ。
 一瞬で十年が駆け抜ける。
 たった十年、だがただそれだけの歳月にすら、確かな重さがあった。誰もがその重さを抱いて生きているのだ。
 警策を握る手に力が戻る。
「俺は――聖杯なんて、いらない。そんなの、望めない。例えあの大災害が完全に無かったことになるとしても、そんなやり直し、認めちゃいけない。だって、起きた事を戻したら――今が嘘になってしまうじゃないか」
 熱いものが頬を伝う。
 呟きのようだった言葉は、紡ぐごとに徐々に力を増していく。
「死んでいった人たちの苦しみ、あの炎の中で誰かを助けるためにした努力、亡くなった人を悼んで生きた人たちの日々。――やり直しなんてしたら、それは何処へ行くんだ」
「衛宮士郎。お前は、そんなものを惜しんで幾多の救える命を切り捨てるのか」
 何を言っても、言峰のその言葉は否定出来ない。やり直しを否定する以上、十年前の大災害で失われた命は見捨てざるをえない。
「――そうだ。そんな命の掬い直し、俺は認められない。死は痛くて悲しいけど、それでも確かなものを残してくれるんだ。そうやって、失われたモノを抱えて人は生きてきたんだから――どんなに悲しくても、戻っちゃいけない」
「――果たして、それでお前の兄弟が納得するかな? 選ばれた者のお前の理屈を」
「…………」
 黒い人工の地獄でガラクタのように置き捨てられた死体じみた人体を思い出す。
「……納得してくれとも、諦めてくれとも言わない。でも、俺は彼らのことを忘れない。それはこうして切嗣に引き取ってもらって、満足に生きている俺が受け止めなきゃならないものだ。偽善と呼ばれようと、傲慢と呼ばれようと、俺は自分を曲げられない。そうして歩んでいくこの道は――けして、間違いなんかじゃない」
「救いよりもエゴを取るか――ならば、最早問答は無用だな」
 漆黒の僧衣が翻る。
次の瞬間には言峰の五指の間には、レイピアにも似た奇妙な長剣が握られている。
「士郎、あらかじめ言っておくけど、私の兄弟子と言っても綺礼が得意なのはむしろ体術よ。アンタじゃ多分相手にならない。倒そうなんて考えず、防御に専念しなさい。隙を突いて、わたしがなんとかするわ」
 もっとも、綺礼が隙なんて見せるか怪しいものだけど、と不敵に笑ってみせる凛に頷き、士郎は警策を構え直す。
 恐らく最後になるであろうマスター同士の直接対決が、始まった。

 


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