「……異界の臭いがするな」 霊体化しているキャスターの、忌々しげな呟き。 僅かに風が渦巻き、フリルで飾り付けられたワンピース姿のキャスターが実体化する。 「キャスター? 実体化しては……」 今のところ言峰は少女サーヴァントがいることを知らないはず。少なくとも士郎達は教えていない。ならばこちらから明かすこともないだろうと思うが、キャスターはまた違った見解を持っているらしい。不機嫌そうな表情のまま、 「ふん。この気配、中になにが居る――いや、在るか知れたものではない。警戒しているというポーズを見せてやれば、下手なことはしてこないであろう。セイバー、汝も姿を現しておけ。武装もしておいた方がいいやもしれん」 セイバーにも実体化を促す。 僅かに悩む気配があったものの、すぐに風が動きセイバーも姿を現した。とは言え、武装まではしていない。ごく普通の少女らしい姿のままだ。 「このままでも魔法は使えるから。それに、もし本当に何か企んでいるなら、逆に隙を見せるのも手じゃないかな」 「ふむ――一理あるな。姿を消しておけば不意も打てるだろうが……」 「ま、待ちなさいキャスター。何故そうも言峰を警戒するのです……そもそも、異界の臭いとはなんです。確かに貴女達は異界の存在であるようですが……それを感じ取れるのは、キャスターとしての能力ですか?」 「そういうわけではない。魔術師などと呼ばれてはいるが、妾の本質が魔導書であることに変わりは無い。そのような小器用な真似は出来んが……これは別だ。酷く慣れ親しんだ臭い」 言葉を切り、キャスターは翡翠の瞳を教会へと向ける。そこに宿るのは、鮮烈な怒りの色だ。 再び戻された視線に、百戦錬磨のバゼットも思わず身を震わせた。少女らしからぬ、殲滅の決意を秘めた烈火の如き怒りの瞳。それは不似合いのようで、キャスターの整いすぎた容姿をこの上なく引き立てている感情の色だった。 「……まあ、魔術師と言っても汝らは妾の知る者達とは違う。あまり踏み込まぬ方がいい」 「キャスター。何か知っているのなら教えなさい。言峰とは旧知の仲です。確かに信頼し切れぬ人物ですが、そのように異様なモノの扱いをされる人ではない」 「……踏み込まぬほうがいい、と言ったであろう。狂うぞ」 「狂、う……? 一体何を」 「重ねて言わせるな。世には知らぬ方がよいことも多い。……これは、その最たるものだ。心構えなどでどうにかなるものでもなしな」 それ以上説明する気は無いらしく、キャスターはずかずかと少女らしからぬ堂々とした態度で教会の方へと歩いて行く。彼女のマスターである葛木は無言でその後に続き歩き出した。 結果不安だけ煽られたような形になり、バゼットは無意識に眉をひそめる。 「バゼット……」 バゼット同様、キャスターの言う異界云々の話がぴんと来ないながら不安だけ煽られてしまったらしく、呟きながらバゼットを見上げるセイバーの表情も不安げだ。協力者である士郎から託されたサーヴァントであり、かつ少女でもあるセイバーにそんな顔をされてはバゼットがいつまでも浮かない顔をしているわけにはいかない。 「……ラックを持って来るべきでしたか」 「え?」 「……いえ。失礼、独り言です。行きましょう、セイバー」 最大の武装を置いてきたのは失敗だったと思いつつ、用心の為にルーンを刻んだ皮手袋を胸ポケットから取り出し、嵌める。 視線を前へ向ければ、葛木とキャスターのアンバランスな取り合わせの背中。そして、灰色の雲に覆われた空を背後に教会が聳え立っている。人の姿どころか鳥の囀りさえ聞こえない。まるで、教会の周囲だけ世界から切り取られたような不吉な静謐。 そんな世界で聳える教会は、神の家と言うよりはむしろ処刑場だ。 浮かんだ不吉な印象を頭を振って追い出すと、バゼットは早足にキャスターの後を追う。 「キャスター、ここは私が先に」 扉に手をかけていたキャスターを制し、 「言峰、話があって来ました」 声をかけながら、重い扉を押し開ける。 瞬間、 「ッ」 「これは……」 バゼットとセイバーは身体を震わせ、キャスターはますます柳眉を逆立てた。不動の表情の葛木すら、眉を動かしたほどだ。 扉から、何か言い知れぬモノが溢れ出す。無論、実際に何かが見えたわけではない。だが、開けた瞬間に感じた悪寒。それは気のせいで済まされる程度のものではないのも確実だ。そして実際、視覚的に異常はなくとも鼻が曲がりそうな異様な臭いがする。 「……言峰、話があって来ました」 バゼットの声が僅かに震えていた。 その気丈な態度にキャスターは少し感心する。これほどの異界の気に触れては、真っ当な人間なら臆して逃げ出すか、下手をすれば意識を失ってもおかしくない。 「――――」 返事はない。 礼拝堂はその豪奢さと反比例するように空虚さに満ちている。 明かりは隅々まで照らし、何一つ物音もなし、何が隠れる余地もない。だと言うのに、何も見えない暗闇に居る以上の危機感と緊張が身を襲う。見えない何者かが、常にぴったりと真後ろについているような戦慄。 「――言峰」 自然、潜めるような声での呼びかけになってしまうバゼットの後ろから、キャスターがずかずかと礼拝堂に踏み込んだ。 「キャスター」 吐き気を堪えながら、セイバーが一人進むキャスターを制止する。 振り返りながらキャスターは少し優しい笑みを浮かべ、 「セイバー、汝は外に居ろ。汝のような小娘にはここの空気は厳しかろう」 「……ダメ、だよ。それじゃ私、バゼットさんについてきた意味がないもん。今の私はセイバーのサーヴァントなんだから……!」 「……やれやれ、強情だな。まあその意気やよしだ。気合を入れておけ……とは言え、その顔色でついて来られても足手まといになる。折りよく椅子もあることだ、少し休むといい」 言って、キャスターは葛木を伴って礼拝堂の奥へと歩いて行く。セイバー一人を置いていくわけにもいかず、バゼットも手近な椅子に腰掛けた。 「……言峰。一体、何をしているのです」 思わず呟きが漏れる。 それを聞きつけたか、セイバーが青い顔のまま小首を傾げ、 「バゼットは……ここの神父様と、知り合いなんですか?」 「え? ええ、もっとも出会ったのはたったの四度にすぎませんが。ですが、それでも彼の人となりは理解しているつもりです。――このような理解の余地もない異常に足を踏み入れる人ではないはずだ。彼を見つけたら、この異常についても問い質さなければ」 「信頼、してるんですね」 「信頼、とは少し違いますね。彼は普通の道徳で言うなら遠ざけておくべき『異物』で、一言で悪と言い切れる男です」 「え、ええと……それって、悪い人ってことなんじゃ……」 「そうですね。彼は間違いなく悪人でしょう。と言っても、具体的な悪事を行うわけではありません。少し観念的な話になりますが――彼は在り方そのものが悪なのです」 「在り方そのものが……悪?」 ぴんと来ないのか、再び首を傾げるセイバー。 「どう言えばわかりやすいか……今も言いましたが、彼――言峰は盗みや殺人と言った、所謂悪事を行う悪人ではない」 「……? それじゃ、なんで悪なの?」 「言峰は決して人と交わらない人間です。誰も必要とせず、誰も憎まず。その完結した強さは、在るだけで他人の弱さを浮き彫りにしてしまう……それゆえに、彼は間違いなく悪と言えます」 「そんな……それは、違うと思います」 僅かに青褪めた顔のまま、セイバーの瞳が強い意志を以ってバゼットを見据える。 「強いだけで悪なんて、そんなことあるはずない」 「……そうでしょうか。確かにそれ自体が悪いことではないと思いますが、ヒトという種において理解しがたい強さ、己の弱さを浮き彫りにするソレは、あってはならないモノではありませんか」 「……バゼット?」 苦いバゼットの、独白にも似た言葉に、セイバーは顔を曇らせる。 が、顔を曇らせるのはバゼットも同じだった。こんな少女相手に愚痴めいたことを言ってしまったのは己の不徳だろう。 「失礼しました、セイバー。そう言った考えもあるということです。善悪の定義などあやふやなものですからね。あまり長話をしてはキャスター達だけに働かせてしまう。貴女の顔色もよくなってきましたし、行きましょうか」 「……はい」 善悪の定義はあやふや、というのが引っかからなくも無いが、長々と議論している場合ではないのも確かだ。 「ちょっと待ってください。さっきはああ言ったけど、やっぱり武装していきます」 最早隙を見せるなどと悠長なことを言えるような状況ではない。黒杖が形を成し、次いで雷光に似た金の輝きがセイバーを包むと、身体に密着した漆黒の戦闘服姿になる。 「……便利なものですね」 バゼットの切り札は少しばかり嵩張るのが難だ。意思一つで実体化させられれば大層便利だろう。 「…………」 「……セイバー?」 歩き出したバゼットだが、足音が自分のものしかないことに気づき、すぐに振り返る。見ればセイバーは止まったまま、じっと己が相棒を見詰めていた。 「……バルディッシュ。大丈夫って聞いても、いつも通りなんだよね」 《……Yes sir》 「……やっぱり」 バルディッシュの応えに、セイバーは困ったように笑う。だがその眼差しに込められているのは、紛うことなき強い信頼だった。 「――信じるよ。……アサルトフォーム、お願い」 《Drive ignition》 紫電が閃く。まるでそれに支えられるかのように斧頭部分だけが宙へ浮き、次の瞬間には浮いた空間に走った紫電が頑強な鋼の形を取る。それは銃器に用いる回転弾倉に酷似していた。さらにそれを覆うカバーが具現化し、再び長斧の形状を形作る。 紫電はセイバーの両手足にも纏わり、くすんだ色の装甲と化した。 「それは……」 突如の武装強化にバゼットは目を見張った。つくづく便利なものだ。 「バルディッシュへの負担が大きいし、出来れば整備環境の無い状態じゃ使いたくなかったんですけど……バルディッシュは頑張れるって言ってくれてるから。何時でも全力起動出来るよう、今の内に」 やはり微細な重量変化などがあるのか、軽く取り回しながら応える。 「そう言えば、結局神父様はいないんでしょうか」 早足で並び、バゼットを見上げながらセイバーが問うた。 出かける前に衛宮邸で電話をかけたが、連絡は取れなかった。キャスターに先導されライダー対策を兼ねて見回りをしたので時間の無駄遣いにはなっていないが、既に衛宮邸を出てから半日近く経過している。 「言峰は監視役ですから……そう長く留守にはしないと思うのですが」 「でも、もう半日も留守に……ひょっとして、監視役が邪魔になったマスターが」 「……ありえない話ではありません。しかし、言峰ほどしたたかな男が容易くやられるとも思い難い。戦闘の痕跡も、今のところありませんしね」 「そうですね……わ」 礼拝堂を抜け、目の前に広がった風景にセイバーは目を丸くした。 おそらく中庭だろう。陰鬱な言峰が世話しているのが信じられないほど優雅な庭園が広がっている。 「これは……大したものですね」 「綺麗……」 いかに冬木が暖かな気候とは言え、暦の上では真冬だと言うのに庭園は色鮮やかなものだ。 思わず歓声をあげながら、二人は渡り廊下を歩いて行く。だが、そんな明るい気分でいられたのは僅かな間だけだった。 「キャスター達、何処だろう……」 「意外に入り組んでいますね……」 奥の廊下はまるで迷路のように入り組んでいる。 そして、二人は闇に突き当たった。 「……地下?」 訝しげな呟きが重なる。 壁と壁の間、建物の影になっていて、普通なら見落としてしまいそうなくぼみに、細い細い階段がある。 「……怪しい」 「です、ね」 顔を見合わせる。 言峰を探しているが、キャスターの性格を鑑みるにまず怪しいところに突撃しそうな感じもする。となると、これほど怪しい場所を見過ごしたりはしていないだろう。 頷き合い、セイバーを前に二人は階段に足を踏み入れた。 「……明るいですね」 階段の先は石造りの部屋だった。明かりはないが、部屋そのものが生物じみた薄青い燐光を帯びている。 「ここって……」 「地下聖堂、でしょうか」 頻繁に使われているらしく、黴や埃は目立たない。 だが、 「臭いが……凄いですね」 「はい……腐臭に近いですが、これは一体……」 自然、二人は背中合わせになった。バゼットは拳を、セイバーはバルディッシュをそれぞれ構え、いつでも迎撃可能な体勢を維持したままじりじりと室内を調べていく。 「……バゼット、あそこに扉が」 バルディッシュで示された先は、一際冥い闇に沈んでいた。 「キャスター達は、奥に……?」 キャスター達は地下に降りていない。その可能性が思い浮かばないのは、この異様な空気に呑まれているからか。 バゼットとセイバーは一歩一歩口を開けた闇へと歩み寄る。 「――う」 硬い靴底を通しても感じる、嫌な感触。まるで水苔がいっぱいにこびりついた床を踏んだような感触だった。ぬたりとしていて、一歩踏み出すたびに滑りそうだ。 そしてなによりも嫌悪感を抱かせるのは充満――いや、沈殿する酷い臭い。闇に踏み込んで一層濃くなった臭いは、鼻に慣れることなど許さず、眩暈と嘔吐をもよおさせる。 「キャスター、いるのですか?」 声など、発するべきではなかったのだ。 用心しながらの問いかけに、応えたのはキャスターの幼くも威厳ある声ではない。いや、声ですらなかった。 「――――」 まるでそれがスイッチであったかのように、闇に慣れ始めた目が室内の様子を脳に認識させる。 「――ッ!」 そこは、さながら地獄の風景だった。 整然と並べられた棺。 その中にある、死体、死体、死体死体死体死体死体死体死体――! 間断なく響く水音は、その死体の口元からだ。ぽたりぽたりと落ちる水滴が、死体の唇を冒している。何年もそのまま放置されているのだろう、穿たれた部分はふやけ、腐り、顎の肉まで腐乱しているものさえあった。 その唇から、聞こえてくる音。 死体の喉に声を紡ぐ機能は無い。 だからつまり、それは、 「生きて、いる――?」 そんなはずはない。死体にはどれも手足が無い。在る部位は頭と胴だけ、それも最早枯れ木の様な有様だ。 だと言うのに、生命というものは、嘘みたいにその存在を主張していた。 さらに闇に目が慣れてくれば、見えてくるのは一層異常な光景だった。 壁と言う壁、床と言う床が極彩色に染まっている。幼児の落書きでももっと意味のあるものになるに違いないほど、不規則で、出鱈目。何色ものペンキをぶちまけて、適当に混ぜただけといった不気味な色彩。 「何故教会の地下に、こんな」 「留守邸に上がりこむ――そんな無作法はしないと思っていたのだがな」 ぽん、と。 呆然と立ち尽くすバゼットの肩が叩かれる。 声の主が誰かなど、自問するまでも無かった。 「出来れば衛宮士郎か凛に見せてやりたかったが……まあ、おまえでも悪くは無い」 かつて無いほど親しげな言峰の口調。 さほど力をかけられていないのに、両肩に置かれた手が重い。 「言峰――貴方は」 「いや、実に残念だよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」 喜悦のこもった声。それがバゼットの耳に届くのと、言い知れぬ灼熱感が胸を襲うのはほぼ同時だった。 「――え?」 違和感と灼熱感、急ぎ見下ろした胸元から真っ直ぐ銀の刃が生えている。 その形状には見覚えがあった。 黒鍵と呼ばれる、教会の代行者が使用する武器のはずだ。 何故そんなものが自分の胸から生えているのか。思考するより先に頭を埋め尽くすのは、痛み。 「あ……ぐッ――!?」 視界から刃が消える――否、視界そのものが暗くなる。 「バゼット!?」 目の前の地獄に呆然としていたセイバーだが、バゼットの苦痛の声と、頬に飛んだ鮮血の感触を見逃すほど戦いに慣れていないわけではない――もっとも、少女の身でそれに対応出来てしまうのが幸いなのかは難しいところだが。 セイバーが振り向けば、バゼットが崩れ落ちる瞬間だった。 「バゼットっ!」 駆け寄ろうとするセイバーの眼前に、刃が突き出される。 「っ!」 セイバーの防御魔術を以ってすれば、突き出された刃程度は容易く弾ける。突進すれば確実に言峰を倒すことは出来るだろう。 だが、それでは言峰を倒せるだけ。 バゼットは言峰に抱きとめられている。そしてセイバーに突きつけた黒鍵とは逆の手には短剣が握られており、バゼットの喉元へと突きつけられているのだ。 (ソニックフォームなら……間に合うのに……!) ソニックフォーム。それは、迅さを重視するセイバーの戦闘スタイルを極限まで研ぎ澄ませたフォーム。かつて全周囲を魔弾に囲まれながら、そこから脱出するどころか並んで戦っていたアーチャーすら救い出した高速の戦闘形態だ。 だが、そのフォームは防御を捨てた攻性特化の姿。しかも起動に貴重なカートリッジを一つと言えど消費する。本来、先も見えない状況で使う手段では無い。 換装にも一瞬ではあるが時間が必要、その隙を言峰が黙って見てくれるはずも無いだろう。 「賢明だな」 バルディッシュを構えるだけにとどまるセイバーの動きを見て、言峰は薄く笑う。 「なんで……こんなこと」 「何故? 異なことを聞く。マスターが他のマスターを倒すのは至極当然だろう」 まるで世間話でもするかのような、気負いの無い言峰の言葉。同時に人工の地獄が鈍く揺れ動いた。 「ふむ……派手にやっているようだな。力を手にして浮かれているのか。あまり壊さないでもらえると助かるのだが」 「……っ」 ほとんど独り言な言峰の呟きに、セイバーは思わず唇を噛んだ。この場における頼みの綱は、上に残ったキャスター達が気づいてくれることだったのだが、今の言葉を聞くにおそらくは言峰のサーヴァント――消去法で考えればアサシン――と交戦しているらしい。 「何が……望みなんですか」 「望み、か――しいて言うならば、娯楽だよ」 「ご、らく……?」 「まあ、おまえに言っても詮無いことだ。……さてセイバー、引いてもらおうか。出来れば上に残ってる者も連れ帰ってもらえるとありがたい。彼には荷が重い相手だろうからな」 「……引けと言われて、引くと?」 応えは無言の動き。 それが引き起こしたのは、苦痛の叫びだった。 無造作に言峰が振るった短剣が何の躊躇いも無くバゼットの左腕を切り落としていた。 「バゼット!」 「三度は言わん。引け」 「こんなことをしておいて、何をッ!」 壮絶な汚臭に、血臭が混じる。常人ならば吐き出してもおかしくない空気も、セイバーの裂帛の気合までは犯せない。 「安心しろセイバー。バゼットを殺しはせん。もっとも、ここでおまえが引くなら、だがな」 「……ッ」 仮にセイバーが引いたとして、言峰がバゼットを殺さない保証は何処にも無い。この状況に追い込まれた時点で、バゼットは死んでいる。ソニックフォームならばともかく、今のフォームでは言峰がバゼットを殺す前に言峰を倒すことは不可能。言峰打倒はバゼットの死亡とイコールだ。こうしているだけでも、出血はバゼットの命を蝕んでいる。つまり睨み合いも論外。 バゼットの命を繋げる唯一の手段は、 「……本当に、殺さないんですね」 「魔術師が一人必要でな。協力者が本命を取りに行っているが、予備があるに越したことはない」 保証の無い言葉を信じ、撤退するしかない。 ――既に、選択肢は無いのだ。 数度の振動が時間の経過を告げる。迷うつもりはないが、事実時間は経ってしまっている。 「……信じます」 呟きと共に、力無くバルディッシュが下ろされた。 「言葉とは裏腹の顔だな。私はこれでも神父だぞ? 虚言など口にせぬよ」 まるで説得力の無い言葉だが、今はそれにすがるしかなかった。 言峰がバゼットを抱えたまま、セイバーに道を譲る。切り落とされた左腕と、血に染まった床が自然視界に入った。噛みしめた唇に一層力が入り、瑞々しい唇の端から一筋血が伝う。 セイバーの姿が消え、なおもしばらく待つと地下すら揺るがしていた振動が止まった。セイバーがキャスターの説得に成功したのだろう。 「さて」 呟き、言峰は自らが切り落としたバゼットの左腕を拾い上げる。 「令呪は残り一つ、か……意外だな、バゼット。おまえはもう少し上手く回っていると思ったが」 どうしたものかと、しばし思考。傷を負ったバゼットの荒い呼吸は、苦痛の満ちた地下にはいいアクセントになる。 聞いた話によれば、ランサーは相当わがままな性格らしい。仮に主替えに賛同しろと令呪で命じようと、無視して言峰を襲ってくる可能性が高い。元よりマスターだろうとなんだろうと自分が気に食わない相手には従わないのなら、令呪の束縛もどれほど意味があるやら。 利用が難しいのなら選択肢は一つだ。 血の気を失ったバゼットの左腕。そこに浮かんだ令呪に言峰の指が重なったかと思うと、異様な光景が展開された。 言峰の指がまるで幽霊のように透き通り、肉に食い込んでいく。五指はしばらく蠢いたかと思うと、左腕に浮かんだ刻印の最後の一画が摘み上げられた。 「少々惜しいが……まあ、一騎労せず落とせることでよしとしよう」 摘出したばかりの令呪を掲げ、言峰は命ずる。 「――自害しろ、ランサー」 |