「きゃっ……!」
「ライダーの攻撃か……!?」
 強烈な振動。まさか天井が崩れるなんてことはないだろうが、それでも咄嗟に士郎はイリヤを抱きとめて庇う。
「ま、まさか城ごと潰すつもりじゃないだろうな……!」
 校舎を半壊させたランサーの例もある。そのくらいの大規模破壊は不可能ではないことを、士郎は既に知ってしまっていた。乱暴な手段ではあるが、同時に敵の本拠地が知れていれば効果的な方法でもあるだろう。サーヴァントは倒せなくてもマスターは魔術師と言えど人間、崩れる建物に押し潰されてはそれだけでおしまいだ。
 幸いにもそれは杞憂で終わったようで、再び振動が襲ってくる気配は無い。とは言え、士郎とイリヤしかいない状態が危険なことに変わりは無かった。
「とにかく、早く遠坂達と合流しよう。イリヤ、ちょっとごめんな」
「え? きゃっ」
 言うが早いが、士郎はイリヤの膝裏と肩に手をかけて横抱きにする。
「な――シ、シロウの馬鹿ぁ! いきなりレディーを抱き上げるなんて、なに考えてるのよっ」
「わ、悪いイリヤ。でも俺は道がわからないし、イリヤが歩くよりはこうした方が早いだろ? 緊急事態ってことで、大目に見てくれ!」
 言いながら、走り出す。
 イリヤに示され角を曲がること数度、
「士郎、イリヤスフィール!」
 向こうもこちらに合流しようとしていたらしく、リズとセラに先導されながら走ってくる凛達と鉢合わせになった。
「ハァ、ハァ――な、エ、エミヤ様っ、ハァ――お嬢様になにを、なさっているのです……! 気安いですよ今すぐお放しなさい!」
 意識的には恫喝なのだろうがあいにく息を荒げた状態ではさっぱり迫力が無い。とは言え、士郎としてもセラの言葉はもっともだと思うし、なにより凛の視線が痛いので素直にイリヤを床に下ろした。そもそも早く合流するための手段だったわけで、合流できた今となってはイリヤを抱き上げ続ける理由も無い。
「イリヤスフィール、一体何事なのよ」
 呆れたような眼差しが一転、緊の一文字に染まる。視線を向けられたイリヤはむっとした表情で、
「ライダーよ。一度やっつけたのに、懲りずに来たらしいわ」
 よく見れば、憮然とした表情の中に緊張が混じっているのがわかる。一度は倒した相手が、ほとんど間を置かずに倒した時よりも大幅に強くなって現れれば、不安にもなろう。
「へえ……あの古本女が。間違いないんでしょうね」
 イリヤの言葉に真っ先に反応したのはランサーだった。
 結局いまだ雪辱は果たしていない。

『貸し一つ……必ず返すわ、古本女』

 謎の突進を受けてダメージを受けた記憶。その時に己の唇から漏れた呟きを、ランサーは覚えている。
 ランサーは執念深い性格と言うわけではないが、プライドは極めて高い。わざわざ自分から探し回る、なんていうのは主義に合わないが、向こうから出向いてきた以上この機会を見逃すつもりはなかった。
「ええ、間違いないわ」
「そう。なら、一戦弾幕らせてもらおうかしら――少し、本気でね」
 口にした途端、士郎達を襲うぞくりとした感覚。
 それは、ランサーから発せられる鬼気に因るものだ。既に魔力は可視化するほど漲っており、薄くではあるが全身から真紅の魔力が漏れ出ている。昨晩キャスターと激戦を繰り広げたばかりな上に、負傷したバーサーカーに一晩付きっ切りだったと言うのに、驚くべき回復力だ。
「ま、待てランサー。戦う前に、ライダーのマスターと話をさせてくれ」
「……は?」
 楽しげな足取りで先行しかけたランサーは、士郎の呼びかけに足を止め振り向いた。士郎へと向けた眼差しが雄弁に、なに言ってるのお前、と語っている。下手なことを言ったらただじゃおかない、といった雰囲気ではあるが、ライダーのマスターは親友の慎二なのである。全力のランサーがマスターを生き残らせるよう手心を加えるはずがないのは容易く想像がつく。今の内になんとか止めないとまずい。
「ライダーのマスター……慎二は、俺の友達なんだ。多分アイツのことだから、いきなり聖杯戦争なんてものに巻き込まれて混乱しちまってるんだと思う。結構逆境に弱いヤツだし。頼む、説得の機会をくれ」
「……懲りないヤツね。言ったはずよ、"アレは屑だ"って」
「そんなこと、ない。慎二とのつきあいは俺が一番長いんだ、俺を信じてくれ」
 慎二が本当に単なる嫌なヤツだったら、士郎と出会うこともなかったはずだ。確かにわがままなのは認めるが、ランサーが言うように屑だなんて認められるはずがなかった。
「お願いランサーさん、衛宮さんに話をさせて」
 思わぬ援護射撃。士郎の加勢に回ったのはアーチャーだった。少し驚いたが、思い出してみればアーチャーはランサーから最初に慎二のことを聞いた時にも説得に賛成してくれた覚えがある。
「鬱陶しいなぁ。まあいいわ、そこまで言うなら好きにすればいい」
 意外にも、ランサーはすんなりと引き下がった。もっとも、ランサーからしてみれば慎二は救いようの無い屑で、説得の成功率など0に等しいのでやるだけやらせてもいい、という結論に至っただけなのだが。
「ありがとな、アーチャー」
「いえ……お友達と戦わなきゃいけないなんて、そんなの悲しすぎますから」
 幸いにしてアーチャーに友人と刃を交えた経験は無い。だが、『友達になりたい相手』と戦っただけでも、あれだけの切なさを感じたのだ。すれ違う言葉、混じり合わぬ意思、振るわねばならない――力。既に心通わせた相手と戦うとなれば、その痛みはどれほど増すものか。
 相変わらずな士郎と己がサーヴァントの意見に、凛は軽くため息をついた。慎二の性格上説得などに応じるとはとても思えないが、直接会って話が通じないようなら士郎とていつまでも強硬な主張はしないだろう。説得に失敗したのを見て、それから改めてライダーを倒しにかかればいい。その場合むしろ問題は、おそらく一対一を主張するであろうランサーの方だ。
 しかしアーチャーの加勢を認めさせるのも難しい。単純に効率を考えればアーチャーに、バーサーカーも加え三対一で一気に叩き潰すべきなのだが、加勢させるということ自体がランサーの力を信用していないと判断されてしまうだろう。
(……と言っても、ランサーと戦ってライダーが無傷で済むわけもないし、そこにアーチャーとバーサーカーがかかれば)
 打算的な考えになってしまうが、むしろランサーが負けるのは望む展開とも言える。積極的に望めるほど、凛は割り切れていないのだが。
「遠坂……お前は甘いって言うかもしれないけど、やっぱり俺は」
 凛の沈黙を非難と思ったか、士郎はそんな言葉を口にする。
 その件については凛の中では既に結論が出ているので、
「え? まあ、いいんじゃない。士郎の好きにしなさい。私だってまあ、知り合いに死なれたらそれなりに後味悪いし」
 事実、慎二に死なれてはある事情から、あまり後味がよくない。
 とは言え、いきなり城が揺らぐほどの攻撃を加えてきたのだ、姿を見せた瞬間に問答無用で攻撃を仕掛けてくる可能性も捨てきれない。一応アーチャーに戦闘服を着装させ、先頭に立つように指示する。
 毛の深い絨毯が引かれた豪奢な廊下は、足音すら消してしまう。下手をすれば曲がり角で鉢合わせになってしまうかもしれない。士郎が思わずそんな可能性を呟くが、
「いえ――それはないわ。ライダーはホールから動いていない」
「そうだね。大きな魔力を下の方に感じる……」
 あっさりとイリヤとアーチャーに否定される。もっとも、むしろ否定されて欲しい予想だったので願ったりではあるが。
「でも妙ね。慎二なら派手な示威行動に出そうなものだけど……」
 ランサーと並んで最後尾を歩く凛が呟く。
「そう言えば、学校の結界も結局慎二の仕業だったんだよな……」
 発動すれば中は地獄と化すであろう結界を学校に仕掛けたのが慎二だという事実を今更ながら認識し、士郎は眉をひそめた。それほどの結界を張った張本人だと思ったからこそ、葛木の襲撃には誰も反対しなかったのだ。ならば、実際の犯人であった慎二にも説得の余地はないのではないか。
 浮かびかけた予感を、士郎は頭を振って追い出す。
 慎二の人となりは知っている。頭に血が上りやすいのも、やり過ぎな性格もわかっている。意外に臆病な面のある慎二なら、突然得た力をどう使うか迷った末に最大威力を発揮する選択を選ぶこともあるだろう。それもこれも、聖杯戦争などという厄介ごとに突然巻き込まれたからだ。士郎や凛と言った知り合いも巻き込まれていることを知れば、戦いたくないのなら協力、あるいはサーヴァントを放棄してくれるに違いない。
「……そこを曲がればホールだったな」
 あと角一つ曲がればホール、というところまでやってきた。最初の衝撃で崩れているのか、瓦礫の落ちる音が聞こえる以外は特に何も聞こえない。
 深呼吸を一つ。軽く頬を叩き、気合を入れる。
「よし……皆、ここで待っていてくれ。あまり大勢で行ったら、それだけで警戒されるかもしれないからな」
 凛達に言って、士郎はゆっくりと足を進める。
「――慎二っ!」
 意を決し、友の名を呼びながらホールへと降りる階段の前へと踊り出て、
「……え――あ?」
 言葉を失った。あまりにも予想外の光景に、思考が凍る。
 それは、ホールの中央に立つ者も同様だったのだろう。ぽかんとした表情を浮かべている。
「さく、ら――?」
「せん、ぱい――?」
 見慣れぬ格好だが、見慣れた顔を見違えるはずがない。
 禍々しい大型のバイク。漆黒の、身体のラインがはっきりと見えるライダースーツ。奇怪な薄紫に染まった髪。
 だが、その衣装を纏った者の顔は、髪に結ばれたリボンは、毎日のように見ているものなのだ。穏やかな声と控えめな笑顔に、どれだけ心安らいだことか。
 先に我を取り戻したのは、階段下の者が先だった。
「……困ったなぁ、先輩は教会に行くとばっかり思ってたのに。はしたないとこ、見られちゃいましたね」
 言って、くすくすと愉しげに嗤う。
 あまりにも冷たい、異質な笑顔。ソレを彼女だと判断するのは、なにか取り返しのつかないことのような気がする。
 だと言うのに、
「桜、お前、なんで……」
 唇は、勝手にその名を紡いでいた。
 ホールの中央、瓦礫の上で大型バイクに跨ったソレは――間桐桜に他ならない。
「先輩、ここにイリヤスフィールって子がいるはずなんですけど、知りませんか? わたし、その子を連れて行かなきゃいけないんです」
「……桜、質問に答えろ。なんで、お前が……!」
「先輩こそ、どうしてこんなところにいるんですか? 電話で言いましたよね、気をつけてくださいって」
「――ッ!」
 ぞくん、と背中が総毛だった。寒気などというレベルではない、脊髄をそっくり氷柱に挿げ替えられたような、あまりにも不吉な戦慄。
「ほんとに残念です、先輩。いくらなかったことになる・・・・・・・・・と言っても、出来れば先輩にとっての間桐桜は、ずっとただの後輩であって欲しかったのに……あら」
 つい、と桜の視線が士郎からその後ろへと動く。
「――桜」
 硬い声が耳に届き、士郎は凛がすぐ後ろまで近寄っていたことにようやく気づいた。
姉さん・・・。貴女も来てたんですね」
 先程から、目に入るもの耳に入るものの悉くが何かの冗談かと思えるほど、唐突で出鱈目だが、これはその極みと言えるだろう。咄嗟に振り向いて見た凛の顔には、殺意にも似た苛烈な感情が浮かんでいる。
「桜、アンタ……」
「いいんですよ、姉さん。もう、全部なかったことになるんですから。それが、本来のカタチなんだもの」
 厳しい凛の表情に対し、桜はあくまでも愉しげだ。
「な……遠坂。姉さんって、お前桜の……」
「ええ、想像している通りです。わたし間桐桜は、遠坂凛の実の妹……そうですよね、姉さん」
 わざとらしく親しみを込めて呼ぶ声に、凛は軋むほど強く奥歯をかみ締めた。
「ふふ……ずぅっと呼びたかったんですよ、"姉さん"って。いいですよね、全部なかったことにする前に、わたしが今のわたしでいるうちに、一度くらい呼んでみても」
「――待て桜。なんなんだ、さっきから言っているその、"なかったことにする"って」
 桜がその言葉を口にするたびに、心に棘が刺さるようだった。
「言葉通りですよ、先輩。わたし、聖杯にお願いするんです。こんな酷い世界、なかったことにしてくださいって。聖杯ならそれが出来るって、ライダーが教えてくれたんです」
「な――んだって」
 その言葉で、心に刺さった棘は決定的に衛宮士郎を貫いた。
 一瞬で脳裏を埋め尽くしたのは、士郎にとっての原初の風景。
 衛宮切嗣によって助け出された、赤い地獄。あれを――なかったことに、出来ると言うのか。
 刹那の間空白になった思考は、一切の行動を不可能とする。
 だから、
「ふん――これ以上の問答は無意味よ。まったく、なかったことなかったことって煩いな。いつぞやのワーハクタクじゃあるまいし」
 そんな言葉を紡ぎながら士郎の前に降り立つランサーを制止することも、勿論不可能だった。
「久しいね、古本女。もう一人の古本女と違って、お前は本当に尻軽のようね」
「くだらないことを……私は真の主の為だけに生きていると言うのに。五百年程度しか生きていない小娘に誹られる覚えは無いわ」
 幼いながらも吹雪の冷たさを持つ声がランサーの言葉を否定する。
 全身から真紅の魔力を滾らせ、見るからにやる気のランサーを警戒したか、桜は機動に不慣れなライダーの宝具である大型バイクを霊体化させ、代わりに十字架じみた黄金の剣を実体化させる。
「まあ、私が気に食わないのはお前だからねぇ。主が誰であろうとどうでもいいけれど――さあ、少し本気で弾幕らせてもらうよ」
 胸の前に掲げていた手がゆるりと左右に広げられる。途端、迸る魔力が城内を揺り動かした。
 渦巻く魔力がランサーの身体を取り囲むその様子は、例えるならば海底トンネルを掘削するドリルだろうか。既に暴力を備え始めた魔力は豪奢な床を容赦なく抉り、その破壊力を存分に見せ付けている。
 その光景を見て、呆然とし続けられるほど士郎は抜けているわけではない。だが、止めるには既に遅すぎた。
「ら、ランサー、待ってくれ!」
「待てないね」
 ちらりと見ることもせず、士郎の叫びを切って捨てたランサーは破壊力の照準を眼下の桜に定める。
「とくと味わいなさい――夜王の揺籃デーモンキングクレイドルを!」
 幼き咆哮と共に、魔力が炸裂する。
 間近に居た士郎と凛が吹き飛ばされるが、待機していたアーチャーの魔術によって幸いにも事なきを得た。下手をすれば壁に叩きつけられていただろう。
 真紅の魔力はランサーを中心にまるで竜巻のように荒れ狂い、触れた物全てを破壊力の渦へと巻き込んでいく。揺り籠クレイドルとはよく言ったものだ。もっとも、こんな物騒な揺り籠など誰も望まないだろうが。
 魔力を纏ったままランサーがホールの床を直撃する。その衝撃たるや流れ星でも直撃したかのようだった。メイド達はイリヤとバーサーカーを庇い、士郎は咄嗟に身近にいた凛を庇う。
「ン・カイの闇よ!」
 ランサーの激突で城そのものが揺れ動く中、轟音に混じり桜の叫びがホールに響く。
 何時離脱していたのか。二階のテラスに移動していた桜が掲げた指先を振り下ろすのと同時に、禍々しい黒塊が飛び出した。その数は慎二が行使した時の倍、六つ。
 おぞましき邪神ツァトゥグアが住まうと言う暗黒世界の名を冠した重力塊は弧を描きランサーを押しつぶさんと疾る。
 だが、ランサーの迸る魔力は並の術で突破出来るほど容易いものではない。可視化に至った魔力はほとんど鎧のようなものだ。
「あの鉄の塊を仕舞うとは……私も舐められたものね」
 黒翼が瓦礫を吹き飛ばしながら羽撃たいた。真紅の余波すら振りまくその動作で、迫り来る黒い魔力塊は寸断される。かろうじて一つだけ翼の動きをかいくぐったものがあったものの、ランサーが伸ばした掌がそれを鷲掴みにし、ぐちゃりと握り潰す。
「宝具とやらで突進してきなさい。こんな術じゃ、私は倒せないよ」
 言いながら手に残った黒い魔力の残滓を振り払う。同時に、その動きは数十の魔弾を生み出した。ランサーが多用している、紅いナイフじみた魔弾だ。
「確かに大した能力ね――サクラ様、術式を解放します。許可を」
「ええ、構わないわ、ライダー」
 鷹揚に頷く桜の指先が、ライダーの知識を受けて複雑な文様を描く。
「術式解放――イスの偉大なる種族」
 ライダーの冷たい声と同時に、桜の肩の上、僅かに浮かんで奇妙なモノが実体を結んだ。
「な、んだ、あれ……」
 なんとか止められないかと、戦いの行方を階段の上からじっと見守っている士郎の視界にも、当然それは入る。目にした途端湧き上がってくる吐き気と眩暈。
 ソレは、とてもこの世のモノとは思えなかった。
 円錐から四本の触手が延びている形状だけでも不気味な代物だというのに、それらは全て虹色の鱗で覆われ、明らかに有機物――生物の一種であると主張していた。だが、これを生物と呼ぶこと自体が生物への冒涜と思わせる、それほどまでに異形だった。
「古本女――私は、宝具とやらを出せと言ったわ」
「聞いたわ。けれど――それに従う故があって?」
 あからさまな嘲笑を含んだライダーの声に、ランサーはつまらなそうにため息を一つ吐き、
「まあ、出し惜しんで落ちるのはそっちの自由だけれどね」
 再び軽く手を振る。ランサーの意思を受け、前面に展開されていた魔弾が桜のいるテラスへと突き進む。一つ一つは小さいとは言え、鋭さはそこらのナイフなどより遥かに上であろうし、さらに言えば速度もそれなりのものだ。
「桜っ!」
 数日前の夜、その魔弾を受けた士郎は桜の身を案じて思わず叫ぶ。おそらく手加減された状態ですら、あれだけ回避するのが困難だったのだ。いかにサーヴァントの力を受けているとは言え、桜に避けられるはずがない。ナイフ状の魔弾によって針鼠のようになる桜の姿を一瞬思い浮かべてしまい、身震いする。
 だが強大な魔導書、ナコト写本の力を得た桜にとって、そんな心配は杞憂にしかすぎなかった。
「ふふ」
 涼しい笑みを浮かべ、桜が軽やかに身を舞わせる。とても回避には見えない機動。
 それだけで、まるですり抜けたかのように、桜は無傷のまま弾幕を凌ぎ切ってしまった。
「――む」
 あまりにも自然体で避けられ、ランサーは思わず眉をひそめる。今の桜の動き、ランサーから見てどうにも腑に落ちない。避けられたのが癇に障る、というのもあるが、それ以外にも何かが引っかかった。
「今のでお仕舞いかしら?」
「……へえ、言ってくれるじゃない」
 とん、とランサーは軽く足踏みをする。それは、次なる機動の為の動作。
 次の瞬間、戦いを見守る士郎達の視界からランサーがかき消えた。
 驚く間も無く響く、硬い鋼同士がぶつかるのにも似た、高い激突音。
 音の発生源は、瞬き以下の時間でそこまで移動したランサーの刃と化した爪と、桜の持つ十字架剣が打ち合い軋む音だ。
「……こいつ」
 桜の視線、動作、攻撃の動きを取りながら、ランサーはそれらを観察していた。結果、己の中で出た結論に、ランサーの幼い美貌が歪む。
 桜はランサーの機動をまったく追えていなかった。視線は明らかにランサーの姿から外れ、意識もまたランサーの動きを捉えられてはいない。激突の瞬間まで、十字架剣も漠然と構えられていただけだ。
 にも関わらず、並の人間では捉えられぬランサーの突撃を、桜は見事防いでみせた。
「しッ!」
 いまだ推測である結論を確信にすべく、ランサーは鋭い呼気と共に翼を桜へと向けた。既に刃と化したそれは、手加減など微塵もされておらず、巨木すら一撃で切り倒すだけの威力を秘めている。無論、凄まじいのは威力だけではない。この距離で向けられた翼刃を避けられるのは、よほど熟練した戦士くらいのものだろう。いかにサーヴァントの力を受けていると言え、素人の桜が避けられるはずが無い。
 だと言うのに、
「…………」
 翼は空を切るのみだった。翼を再び背に戻せば、視界の端で嗤う桜が見える。
「……お前、私の攻撃に反応してるんじゃあないわね」
 得意げな嗤いが癪に障る。
 そちらの奇術のタネは知れているのだということを知らしめる為、距離を取ってランサーは言葉を紡いだ。
「あら、負け惜しみですか?」
 嘲笑う調子の桜の声を無視し、
「事実よ。お前は、私の動きをまったく追えていない――いいえ、追う必要が無いのかしら」
 ランサーの動きを認識していないにも関わらず、防御は成功している。
 それはつまり、
「私の動きを把握しないでも防御が可能……要するに、何処に攻撃が来るかわかっているってことね」
「……へえ、聡いですね」
 桜の顔から嘲笑が消える。それで溜飲が少し下がったか、ランサーは僅かに笑みを浮かべ続ける。
「時間操作かとも疑ったけど、仮にそうならもう少し上手く使いそうなものだものねぇ……お前の能力は、予知、ね」
 あるいは未来視と言い換えてもいいだろう。いつ、どこから攻撃が来るかわかっていれば、ランサーの動きなど端から見る必要は無いに決まっている。いくら予知でどこに攻撃が来るかわかっても身体がついてこなければ意味が無いが、サーヴァント級の身体能力を備えた今の桜ならばそれも問題ない。
「私の能力じゃなくて、この子のおかげですけどね」
 言いながら、桜は自分の肩の上に浮かんだ奇怪な生物を撫でてやる。
「時間と言うものを支配したがゆえに"偉大なる"と呼ばれる、イスの種族……この子が常に最善の未来を教えてくれるんです――だから」
 再び、桜の唇が嘲りに歪む。
「貴女がどれだけ攻撃しようが、全部無駄ですよ。常に一手先が見える私に、敵うはずないでしょう?」
 いかなる攻撃をしようと読まれ、いまだ使われていないが、その予知を攻撃時に使われてはどんな防御や回避も無意味と化すだろう。未来を知ると言うとてつもないアドバンテージを持つと嗤う桜に、直接対峙していない士郎や凛は戦慄するが、ランサーは違う感想を持ったようだ。
 勝ち誇る桜を鼻で笑い、
「――ふん。このレミリア・スカーレットに予知で闘おうなんて……十万年は早いんじゃあないかしら」
 言いながら、胸の前で掲げた両手を桜へと向ける。
「な……っ!?」
 そこに展開された奇怪な光景に、見守っている士郎達はおろか桜まで目を瞠る。むしろ予知していた桜の方が驚くタイミングは早かった。
 指先から順に、肘ほどの位置までぼやけたかと思うとそれが蝙蝠となってランサーの周囲を回る。
 それが、
「行きなさい、我が眷属サーヴァントフライヤー!」
 ランサーの号令の従い、一斉に飛び立った。
 無論、それがただの蝙蝠であるはずがない。生物的な蝙蝠と言うよりは、蝙蝠の輪郭を持った何かと言う方が正しいくらいだった。時折魔法陣を背負い、ランサーが放つそれとは違う形状の、流線型の真紅の魔弾を吐き出して、桜を狙っている。
「手数を増やせばなんとかなると思っているんですか」
「無駄な事をするのね。意外に可愛らしいじゃない」
 嘲りの声が唱和した。
 イスの偉大なる種族によって未来を知る桜にとって、今展開される弾幕はけして避けられないものではない。肩の上に浮かぶ異形が囁く通り、己が無事でいる未来に映った位置へと動き、素早く術式を紡ぐ。
 ン・カイの闇が、重力結界が、手にした十字架剣が、狙い違わずランサーが生み出した蝙蝠を屠っていく。予知は、なにも防御だけに有効というわけではないのだ。
 一方的に使い魔が蹂躙されていると言うのに、ランサーに焦りの色は無い。撃ち落とされた分の蝙蝠を補充しながら、大小の魔弾を放つその顔に浮かぶのは、戦いを楽しむかのような笑みだった。
 傍から見れば膠着状態のような戦闘模様。いや、魔力によって生み出しているであろう使い魔を次々と落とされている以上、ランサーの力が一方的に削られているだけと言える状態に見える。
「通じないのが……わからないんですか?」
 その状況に、先に焦れたのは優勢の桜の方だった。苛立たしげに呟くと、術式を増やしランサーへと向ける。
 だが、ランサー自身が放つものに加え、そこかしこを飛び回る使い魔からの魔弾を回避しながらでは大きな術式は紡げない。そして並の術式ではランサーの防御を突破出来ないのは証明済みである。
 漆黒の重力塊を切り裂いたランサーの腕が、今までとは違う、まるで指揮者が指揮棒を振るかのような動きを取る。どうやらそれが合図になったらしく、飛び回る蝙蝠達がランサーの周囲へと集った。
「お前……私に攻撃が当たる光景が見えていないでしょう」
「……なんですって?」
 図星を突かれ、桜の顔に浮かんだ苛立ちの表情がますます濃くなる。それを見てランサーは愉快そうに笑い、
「馬鹿、としか言いようがないわ。見るだけなら、誰にだって出来るのに、それも出来ないなんて」
「な……! そ、そんな強がりをっ!」
 言葉と同時に、術を放つ。ナコト写本によらぬ、間桐桜自身が保有する吸収の魔術。今の桜の能力で放てばサーヴァントの持つ莫大な魔力すら一撃で吸い上げかねないそれは、イスの偉大なる種族が囁く通りの結果に終わる。
 すなわち、ランサーが放つ真紅の魔弾と相殺。
 元よりわかっていた結果だ。イスの偉大なる種族は、術者の望む結果を受け取り、それにそぐう未来を囁き返す。つまり、所詮現状から有り得る可能性へと導くに過ぎない。
「馬鹿みたいに受け身なのね。未来が何か特別なものだとでも思っているのかしら」
 ランサーの指先が桜の方へと向く。
「このままじゃつまらない。教えてあげるわ、一手先ってのはね、自分で"作る"ものなのよ」
 言葉と共に、周囲に集った蝙蝠が一斉に魔弾を吐き出しながら前進。さらにはランサー自身が生み出す魔弾も重なり、弾幕は密度を考えれば最早壁に等しい。
「っ。この……ッ!」
 焦燥に駆られ、桜は手にした十字架剣を振り下ろした。魔力が込められたそれは数倍の長さに伸び、前進してきた蝙蝠ごと壁と化した弾幕を切り裂く。
「ン・カイの闇よ!」
 続けざまに術式を解き放ち、ランサーへと向ける。
 イスの偉大なる種族へと問う、どう放てばランサーを飲み込めるか。
 だが返ってきたのは、
「っっっ!」
 長く伸びたランサーの紅い爪によって悉くが切断される予知ヴィジョンだった。
 無意味と知りながら、近づく蝙蝠を巻き込むように重力塊を投げつけ、さらに迫る魔弾を吸収の魔術で絡め取る。
「サクラ様、宝具を起動させるべきです」
「わかってるっ」
 ライダーの冷静な声にも、思わず怒鳴り返してしまう。ライダーの宝具、忌まわしき狩人ハンティングホラーの突撃ならば、この程度の弾幕、障壁だけで防ぎきれるはずだ。それが最良の手段であることは桜とて理解しているが、宝具を喚ぶだけの集中をする機会が見出せない。なんとか隙を、と予知に頼る桜は愕然とした。
 鮮烈な紅の光景。
 全ての行動に対する解が、それしか出ない。
「ほら、先の光景を受け取るだけだからこういうことになる……せっかく教えてやったのに、まったくの無駄ね。もうお前は、この賢王の六芒スターオブダビデからは逃げられない」
 ランサーの言葉を起因に、術式が解き放たれた。
 桜を取り囲む蝙蝠達が真紅に輝き、互いに紅いラインで結ばれていく。無論そのラインがただの光であるはずがない。先程からの魔弾の展開でぼろぼろになった天井や壁から落ちる破片が、ラインに触れては塵と化すのを見ればその剣呑さは嫌でも理解できた。
「ぼ、防禦結界!」
 ほとんど悲鳴となった桜の声が、かろうじて防御の術を発動させる。
 網目のような光線は、かろうじて隙間を見つけるだけの余地がある。しかし逃げ場を奪うだけの生易しい術であるはずが無い。宙に六芒を描く起因となっている蝙蝠から、青白い魔弾が円環状に放射される。一つ一つがサッカーボールほど大きさの冷たい輝きを持ったそれを、防禦陣を展開する桜に回避する術はない。
「やれやれ、今度はそうやって閉じこもってるだけ? 張り合いってモノがないわ」
 一度起動した術を維持する必要はないのか。自分の頭上で真紅の光網に囚われた桜を見て、ランサーはつまらなさげにため息を吐きながら新たな術式を紡いでいく。
「まあ、気を抜いたのはそっちの勝手だし、とりあえずは借りを返させてらおうかしら」
 ランサーの細い腕がゆっくりと左右へと広げられていく。
 その姿はまるで十字架に磔られた聖者――捻くれた者なら、人類は十進法を採用したと言いたいんだろ、などと言うかもしれないが――のようだ。
 ただそれだけの動作だと言うのに、溢れる魔力は余波ですらホール内の空気を滅茶苦茶に掻き乱す。拳ほどの大きさの瓦礫すら巻き上げられ、小型の竜巻が荒れ狂っているかのよう。
「まずい。あんな魔力使う魔術が発動したら……!」
 半壊どころの騒ぎではなく崩れた校舎を思い出し、士郎は身震いした。セイバーもいない状態、強化しか使えない半人前以下の魔術師の己がなにを出来るわけではないのは理解しているが、桜を見捨てることなど出来るはずが無かった。
「ランサー! もう勝負はついてるだろ、やめてくれ!」
「お断りよ。散々囀ってもらったしね、一度ガツンとやらなきゃ気がすまないわ」
 やはりと言おうか。士郎を一瞥することも無く、ランサーは士郎の言葉を切って捨てた。無視されないだけマシなのかもしれないが、結果は同じなのでまったく意味が無い。
「くそ、だからってあんな魔術使ったらガツンどころの騒ぎじゃないだろ……!」
「ちょっと士郎!?」
 頭を庇いながら飛び出していく士郎を止めようと伸ばした手が宙を切る。
 ランサーが発動させようとしている術式が強大な破壊力を発揮するであろうことは確かだが、反面キャスターと同系統の魔術であろうライダーの防御魔術の頑丈さも既に目にしている。一般人ではないが、さりとて魔術師でもない葛木をマスターにしているキャスターでさえあれだけの防御力を誇ったのだから、桜をマスターにしたライダーの防御はそれを上回るであろうことは想像に難くない。
 凛としても桜が死ぬことは回避したいのだ。最悪アーチャーの防御魔術で庇わせればと思っていたところに、士郎の行動である。
「ああもうこの馬鹿……!」
「凛さん、わたしが!」
 言って、アーチャーが飛び出す。
「一応言っといてあげるけど、下手に近づかない方がいいわ。死ぬよ」
 ランサーとて無闇矢鱈殺しをしたいわけではない、警告を口にするが士郎が走り寄ってくる気配が止まる様子は無かった。
「ま、いいけど」
 義理は果たしたと判断し、ランサーは意識をあらためて集中させる。
 ホール中に充満した己が魔力を、再び集結させ、術と成す。
 ふわりとランサーの小さな身体が浮かび上がり、鳴動していた魔力がほんの一瞬沈黙する。
 それは、まさに嵐の前の静けさだった。
「"紅符"――不夜城レッド」
 静寂を破る、ランサーの声。可憐な印象に反し、それは破壊神の咆哮に等しかった。
 胸元を中心に、左右に広げた腕と揃えた両足そして頭、見たままの十字架の形に沿って、真紅の魔力が竜巻と化して噴出する。そのあまりに出鱈目な威力に、発動の寸前、かろうじて士郎とランサーの間に飛び込み、防御魔術を編み上げたアーチャーは目を瞠った。
 最初にランサーと出会った夜、校舎に向けて投擲された紅い槍。四方に伸びた魔力の竜巻は、一つ一つがそれに匹敵するだけの莫大な魔力で編まれていた。荒れ狂う魔力の噴出はそれだけに止まらない。十字に展開された、城の壁や天井を容易く貫く渦ほどの威力は無いが、ランサーを中心に放射される真紅の魔力は床に散乱した瓦礫を吹き散らし、壁に刻まれた細緻な紋様を蹂躙する。
「攻性のバインドから、回避の余地のない広域魔法……凄い連携だね。あの紅い竜巻みたいな魔力の渦――ラウンドシールドでも防げないかも」
 目の前で繰り広げられる破壊の光景に、アーチャーは冷や汗を垂らす。
 余波だからこそアーチャーが紡ぐ桜色に輝く球状の防御魔術で凌げているが、直撃を受けては全方位防御のこの術など紙を破るかのように貫かれてしまうだろう。鉄壁の自信がある部位防御の盾状防御魔術でも、どれだけ防いでいられるか。そもそも周囲を取り囲んだ術式を凌ぐのに恐らく球状の防御魔術を使ってしまうだろうから、切り替えのタイミングなども考慮に入れれば防げなかったと言い切ってしまえる。
 まさに凶悪無比、回避不能の連携だ。
 平凡な小学三年生であったはずのアーチャーだが、自身曰く"魔法少女"になって以降戦闘者としての成長が目覚ましい。ゆえに、その連携に晒されて防御結界を維持し続けている桜とライダーに対して、思わず素直に感心してしまった。
 だが、士郎がそんな暢気な感想を抱けるはずが無い。
 咄嗟にランサーとの間に割り込んでくれたアーチャーに礼を述べる声も何処か上の空、紅い渦に弄ばれる桜をただ見ることしか出来ない己の無力さに歯噛みする。
 桜を包む防御結界は、目に見えて冥い輝きを失っていく。
 その光景に、ランサーは好戦的な笑みを浮かべた。適当に手を抜いた初戦と違い、今回は弾幕ごっこの範疇ではあるが全力全開だ。そのランサーが紡ぐ術式を凌いでいるのだから、これは感心に値する。
「大したものだよ……でも」
 呟きに応じ、ランサーの爪が剣呑な長さへと伸びる。さらには賢王の六芒スターオブダビデを構築して大分数は減ったものの、紅の魔力の中を悠然と飛び回る己が眷属サーヴァントフライヤーへと命令を下す。
 受けた借りは十分返した。
 敗者をいつまでもいたぶるような下らない真似はランサーの好むところではない。
「これで、詰みね!」
 赤い魔力がランサーを包む。
 その僅かな色彩の差異には気づけなくとも、魔力の異質さはそれを見る者全てが即座に気づいていた。
「っ!? バゼット、また余計な真似を……!」
 全身を突き動かす強制力。ランサーは既に二度、それを味わっている。意図しない行動を取らされる、サーヴァントとして現界している以上必ず背負わねばならないマスターからの絶対命令権による指令。
 舌打ちしながらも、ランサーは強く翼を羽撃ばたかせる。
 強制転送される前に、最後に一撃加えてやろうという心算だった。
 最早消える寸前の防御結界越しに、桜が驚愕の表情を浮かべるのを見ながら空中を疾走。硬質化した爪を振り上げる。
 ホールに肉を穿つ嫌な音が響いた。
「……な」
 鋭い爪が柔らかな肉を抉っていく。苦痛の声が漏れるが、手が止まる気配は無い。さらに深く、強く、心の臓を抉り出さんと進んでいく。流れ落ちる液体は、淡い水色の服・・・・・・を無残に赤く染め上げていった。
「ば、ゼット……?」
 呆と言葉を漏らす唇の端から、一筋の鮮血が滴り落ちる。まるでそれがスイッチだったかのように、続いて激しく咳き込み血の塊が吐き出された。胸に食い込んだ爪が心臓だけを貫けるはずがない。肺を傷つけた結果だろう。
「ランサーさんっ!」
「ランサーっ!」
 あまりにも理解不能な光景を目の当たりにした士郎とアーチャーがランサーを呼ぶ声が重なる。
 桜の防御結界を破らんと振り上げられたランサーの爪は、他ならぬランサー自身の胸を貫いていたのだった。
「さっきの令呪が……!? でも、くそっ、一体なんなんだよっ」
 他に思い当たる節がない。しかし、何故この場にいないバゼットが突然ランサーに自殺を命じたのか。そんなことは想像外どころか、現実として認められないほどだ。なんらかの手段でライダーが見せている幻覚と思った方が、まだ納得がいく。とは言え、少なくとも目の前でランサーが己が心臓を抉らんとしているのは確か。それが現実だろうと幻覚だろうと、とにかく止めなければ。
 凄まじい砲撃を操れど、基本的に魔力を削る戦いしか経験していないアーチャーだが、家庭環境のせいと言うかおかげと言うか、血を見ることには慣れている。致命傷に至るほどの大量出血は流石にきついものがあるが、思考を止めてしまうほどではない。
「レイジングハートっ」
《All right》
 両手で構えた愛杖の先端をランサーへと向け、術式を構築する。
 アーチャーが飛翔や攻撃よりも先に覚えた術式だ、練度には防御魔術に勝るとも劣らない自信があった。
「拘束魔法――レストリクトロック!」
 不可視の魔力がランサーを周囲の空間ごと包み込み、効果は即座に発揮された。桜色の光輪がランサーの四肢を拘束する。アーチャーの莫大な魔力と、レイジングハートの確かな演算で組まれた捕獲用の補助魔術。抵抗は極めて困難を要するはずだ。だと言うのに、
「っ……反発が、強い……!?」
 専用の抵抗術式や、破壊術式で対抗しているわけではない。単純にランサーを動かそうとしている魔力だけで、レストリクトロックの術式が信じられないほどの速度で崩壊している。
「お姉様ーっ!」
 魔力を集中させ、崩れる術式を高速で紡ぎ直すアーチャーの頭上をバーサーカーが飛翔する。そのままの勢いでランサーへと抱きつくと、自身の胸を抉ろうとしている腕を両手で掴み、
「お姉様お姉様お姉様っ、なんで!? こんな、血が、赤くて、あ、あ、あああああ!?」
 半狂乱になって、引き抜こうとする。あまりに強く掴みすぎて、桜貝のようなバーサーカーの爪がランサーの白磁の肌へと食い込んでいるが、どちらもその程度のことを気にかけている余裕は無かった。
「お願い……止まって……!」
 防御、補助を得意とする自分の師である少年ならばもっと早くランサーを止められるだろうと、己の術の未熟さを悔やみながら、アーチャーは拘束の術式を展開し続ける。
 一つ崩れる前に二つ目を、二つ目が崩れる前に三つ目を、思考が高速で走り、次々と拘束の光輪がランサーの四肢を縛っていく。その度にランサーを包む赤い魔力の流れが薄れていき、七つ目の拘束に至って完全に消滅。同時に令呪による魔力の流れを塞き止めていた拘束もすぐに自壊する。自然、自らの力で飛行することがとうに出来なくなっていたランサーは、泣きついて飛ぶことを失念しているバーサーカーごと床へと落下した。落下制御を使えるアーチャーだが、レストリクトロックの直後ゆえ術式を紡ぎきれない。
「ランサーさんっ!」
 思わず悲鳴をあげたアーチャーの後ろから、
「――間に合え!」
 叫び、飛び出したのは士郎だった。
 ヘッドスライディングの要領で、両手を広げながら全速力で突っ込む。幼い少女二人とは言え、それなりの高さから落ちてくるのを受け止めては腕など簡単にイカレてしまうだろうが、そんな自分の心配など考えに浮かびもしなかった。もっとも仮に考えたとしても突っ込むのが衛宮士郎という少年だが。
 そんな士郎の自分を度外視した滑り込みにより、なんとか少女サーヴァント二人を抱きとめることに成功する。やはりと言おうか腕が嫌な音をたてたが、この際構っていられない。
 ランサーを襲った理解しがたい異常。自身で貫いた胸の傷は相当深いとは言え、吸血鬼という種族を考えれば重傷であることに違いは無いが、致命傷とまでは言えないはずだ。なんとか命を救えたことに安堵し、現状を一瞬ではあるが失念してしまったアーチャー達を、誰が責められよう。
 その行動に気づけたのは、ホール全体を見渡せる階段の上にいた凛一人だけだった。
 桜の五指が広げられ、アーチャーへと向けられていることに。
「アーチャー!」
 叫ぶ。
 だが、その音速はあまりにも遅すぎた。
「きゃああああっ!」
 悲鳴。
 弾かれたように振り向いた士郎が見たのは、黒いタールじみたものに囚われるアーチャーの姿だった。
 アーチャーを縛るモノには見覚えがある。ランサーとの戦闘中、桜が何度か放っていた魔術。
「ふふ――ふふ、あはははははは――」
 苦しげなアーチャーの呻きに混じり、ホールに響くのは空虚な笑いだ。勿論、それを発しているのは、
「さく、ら――お前……!」
「本当に驚きました……まさか、いきなり自殺するなんて。神父さんが上手くやってくれたのかしら」
 くすくすと嗤う。一瞬前までの疲労と焦燥は、既にそこには無い。防御結界に集中する為にイスの偉大なる種族は退去させてしまっているが、今の状況においては最早予知など必要ない。いまや桜は圧倒的な優勢に立っているのだから。
 魔術に疎い士郎はわからないが、一流の魔術師であり間桐の特性を知る凛には、アーチャーを捕らえているモノの正体がすぐに理解できた。吸収の魔術、サーヴァントの力を得て強化されたそれは防御結界で消耗していた桜の魔力を、アーチャーから奪うことで一瞬で充填させたのだ。
「――リン」
「なによイリヤスフィール、今これからどうするか……って」
 倒れた二騎のサーヴァント、力を取り戻した桜。そして凛は聞き逃さなかった、桜が神父と口にしたのを。この冬木における神父など、該当する人物は一人しかいない。混乱しつつも、なんとか現状を打破しようと思考を巡らせる凛が、話しかけてきたイリヤに苛立った態度で接してしまうのも無理はないだろう。だが、その棘ある態度は思いがけないイリヤの様子を見て素の状態に戻ってしまう。
 服の上からでもわかるほどの強い発光。イリヤの全身を、赤い有機的な紋様が覆っていた。それは、つい今しがたランサーを突き動かした赤い魔力流と同じ輝き。すなわち、令呪の光だ。
「イリヤスフィール、アンタ……」
「バーサーカーのところまで走って。リズに時間を稼がせるから、シロウを連れて逃げなさい」
 イリヤが凛をして反論を許さぬ強い口調で言うと同時に、白い影が奔った。目にも留まらぬ、とはこのことか。下手をすればランサーの機動に匹敵する速度でホールへと躍り込んだのは、リズと呼ばれるメイドだった。
 その速度、さらには彼女が手にした物を見て、凛は思わず状況を一瞬忘れ唖然とした。
 身長を超えるほどの長さの、斧と槍の機能を併せ持つ――ハルバートと呼ばれる武器。それが、メイドの手には握られていた。その細い身体に一体どれほどの力を秘めているのか。リズはそれを軽々と振り回すと、あろうことか桜へ向かって投擲した。
「っ!? くうっ……!」
 咄嗟に防御結界を展開し飛来する凶器を弾くも、結界の構成が甘かったか、桜の体勢が大きく崩れた。
「リン」
 イリヤが逡巡する凛を促す。妙に落ち着いた様子が腑に落ちないが、先の防御でアーチャーを縛る魔術が消えた今が離脱の機会なのは確かだ。
「……借り一つよ。貸し逃げなんて許さないからね」
 言って、イリヤへ背を向けて凛は走り出す。
 魔力で強化された脚力は百mを七秒もかからず走り抜けるだけの速度を発揮し、桜に邪魔されること無く階段下へ到達する。さらに腕を中心に強化を施し、倒れて荒い息を吐くアーチャーを通りがかりざまに拾い上げ、そのまま士郎へ密着する。
「な、遠坂……!?」
 士郎が驚きの声をあげるのが聞こえるが、応えている余裕は無い。
 自分と士郎の身体でアーチャーを固定するように挟み、凛は叫ぶ。
「イリヤスフィール、今よ!」
 いつでも発動出来るように待機していたイリヤが令呪に魔力を通すが、凛の叫びがなにを意図しているかはこの状況と凛の行動を見れば桜にも筒抜けだった。本来の目的はイリヤの確保だが、冥い感情に動かされた桜がみすみす凛達を見逃すはずは無い。
「バーサーカーっ、皆を連れて逃げなさい!!」
「逃がすと思ってるんですか、姉さんっ!」
 空間に、突如として影が生まれた。実体のある影、とでも言うべき奇妙なそれは刃の形となり、凛を串刺しにせんと疾走する。
 バーサーカーが未だ傷ついたままの羽根を広げるが、遅い。飛び立つよりも先に刃は凛を貫くだろう。サーヴァントの力を得た桜の魔術行使がどれだけの威力を秘めているのか。
 襲い来る影の刃を見ながら、士郎はなんとか凛を庇えないかと身体を捻るが、生憎凛とアーチャー、バーサーカーとランサーの間で挟まれている形になっていた。身動きなどとても取れるものではないが、せめて一本でも、となんとか片手を伸ばし、盾代わりに差し出す。
 その士郎の腕より前に、白い影が黒の刃の前に立ち塞がる。
「アンタ……!?」
 背に直撃を受けるも、まるで苦痛など感じていないのか、赤い瞳は少しも揺るがず、
「バーサーカー、行って」
 朴訥な声でそう言うと、手にしたハルバートをくるりと取り回し、構えて桜へと向き直る。
 そして、その声に後押しされるかのように、バーサーカーの羽根が大きく羽撃たいた。赤い魔力の奔流がバーサーカーへと流れ込み、ただ一つの命令を実行させる。
 すなわち、逃走。
 月へ行くロケットに乗ったかのように、全身に強烈なGを感じ一瞬意識が遠くなる。だから、その光景が真実なのか朦朧とした意識が見せた幻だったのかはさだかではない。
 だが、士郎の瞳は確かに、迷子の子供のように切なく惑う眼差しを捉えていた。

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