比較的温暖な冬木であるが、市街地から遠く離れた日の光も届かぬ森は、そこに居を構えたアインツベルンの故郷と同様、厳しい冬の空気に閉ざされていた。吐く息は白く、冷気は肌を刺すよう。 半壊したロビーの階段に、一人桜は座っていた。 ランサーと戦った時纏っていたライダーによる魔術装束はそのままだが、膝を抱えて座る姿に戦闘時に見られた高揚は無い。 本来ならばイリヤを連れてすぐにでも教会に行きたかったのだが、聖杯による奇跡を成す為には相応の準備が必要だと言われれば、魔術に詳しくない桜としては待つしかない。そもそもその準備をする為に必要なホムンクルス――リーゼリットは他ならぬ桜自身の手によってかなりの損傷を負ってしまっている。 士郎達が撤退してから既に半日以上が経過していた。 「全部……なかったことに、なるんだから」 戦闘直後こそ勝利の愉悦に酔っていたものの、今の表情はいつもの桜のそれと同じだ。衛宮邸ではけして見せない、冥く澱んだ顔。 穢れの無い身体、優しい姉、あるべきはずのものが全て揃っている世界が、もうすぐ己の物になる。その奇跡が目前に迫っていると言うのに、桜の心は晴れない。 力を得た。姉はおろかサーヴァントすら凌駕する力がある。その力で奪われ続けた物を取り戻す。事実残る敵はセイバーくらいのもので、望む未来――否、正しくは過去と言えるが、それはあと僅かで訪れるのだ。 だが、ライダーに囁かれた時には確かに存在した、燻るような高揚は薄れていた。勿論失われたわけではない、己が望んだ世界を実現するという欲望を一度抱いて捨てられるほど、桜は高潔な人物ではない。しかし同時に、心には疑念も生まれていた。本当に、今の全てを無かったことにしてもいいものか。忘れられるはずが無い、衛宮邸での日々を。大河の笑顔を、士郎とのふれあいを。やり直すとあっては、それが全て失われる。 「…………」 抱えた膝の間に顔をうずめる。 望む過去、遠坂桜としてなら――穢れていない桜なら、もっと当たり前に出会えていたはずだと思う反面、それは可能性でしかなく、士郎と出会えないかもしれない。 「サクラ様――人の縁とは強いもの。例え世界が変わろうと、出逢うべき相手には必ず出逢う。そのように出来ている。だから、迷う必要などないわ」 桜の迷いを見透かしたか、ライダーが囁く。落ち着き払った口調だが、ライダーは内心僅かとは言え焦っていた。ライダーの思う方向に誘導こそ出来ているが、完全に掌握出来ないのはライダーをして意外だった。もっと容易く篭絡出来ると考えたが、間桐桜という少女の堅牢さはライダーの予想を遥かに上回っている。 二手、三手先まで想定しているライダーだが、ここで桜に諦められては色々面倒だ。 「……ええ、わかってるわ。ライダー」 僅かに顔を上げ、冥い声で桜は応える。 迷いはあるが、既に一度仕掛けてしまった以上もう後戻り出来ないという気持ちも強かった。 「そうよ……今更、戻れるはずないもの」 黙って過ぎ去るのを待っていれば、あるいは日常に戻れたかも知れないが、桜は動いたのだ。例えそれが流されるようにだとしても、起こったことは最早消えない。 どの道、桜は聖杯を手に入れるしかない。そうでなければ最早立ち行かない所に立ってしまっている。 少なくとも、桜自身は頑なにそう思っている。 艶やかな唇からため息が漏れ、桜は再び膝に顔を埋めた。 そして、どれほどの時間が経ったのか。 日の光も届かず、生き物の気配も無い森の城だ。時間の経過などわかるはずもない。一瞬か、それとも半日過ぎたか。まして濁った思考で判別出来るはずも無い。 カツンと、起こるはずの無い音が響いた。 誰か来た、桜がそれに気づいて顔を上げるよりも早く、 「随分と景気の悪い顔ね」 一瞬で、燻っていた心が炎上した。 心には怒り、視線には殺意を込めて、朝靄の彼方から現れた者を睨む。 「……姉さんっ!」 「おはよう、桜。そんな顔してるってことは、まあアンタもそう捨てたもんじゃないってことかしら」 無感情に言いながら全壊した門扉を潜り、姿を現したのは言うまでもない。桜の実姉にしてアーチャーのマスターである遠坂凛その人だ。 だが解せないことに、一人。傷ついたアーチャーを連れていないのは納得だが、協力体制にあるはずのセイバーやキャスターすら連れていない。 その事実に、桜は薄く冥く嗤う。 「お一人でなにをしに来たんですか、姉さん。まさか姉さん一人で今のわたしが止められる、なんて馬鹿なこと考えてるわけじゃないですよね」 嘲笑混じりの桜の言葉に、凛は激昂するわけでもなく、軽く髪をかきあげ、 「は? なに桜。まさかアンタ、わたしがアンタを止められない、なんて馬鹿な勘違いしてるんじゃないわよね」 なんて涼やかな声で言い放った。 「っ!」 そのあまりに余裕に満ちた態度に、桜は瞬時に沸騰する。 手に眩い輝きが灯ったと見えた瞬間には、それは黄金の弓を形作っていた。 「劣勢のあまりおかしくなっちゃったんですか、姉さん。サーヴァントも連れずに、姉さんの何処に私に勝てる要素があるっていうんですか!」 言葉と共に、魔力で生成した矢を番え、凛へと向ける。 普通の矢に射抜かれても人は死ぬ。ましてサーヴァントの能力で生み出されたそれは、凛の魔術を以ってしても防御出来るかどうか。だと言うのに、凛の態度は変わらない。小さくため息まで吐いてみせ、 「まったく、借り物の力で有頂天になっちゃって。ほんとに呆れたわ」 その言葉には、何処にも気負いが無い。圧倒的な力を持つはずの桜を前に、凛は萎縮するどころか、どこまでも遠坂凛そのものだった。 弦にかけられていた指が離れる。桜の魔力で形成された漆黒の矢は文字通り目にも留まらぬ速度で飛翔し、凛の頬を掠め背後の壁を直撃。 白い頬に鮮血が流れ、直撃を受けた壁が轟音を響かせ崩れ落ちる。破壊の音に混じるのは、桜のヒステリックな哄笑だ。 「どうです、姉さん! 借り物だろうがなんだろうが、これが今のわたしの力です! 無力な姉さんに、なにが出来るって言うんですか!?」 「じゃあ聞くけど、アンタはその力でなにをするの?」 どこか泣き声めいた叫びを、凛はあっさりと受け止め、言葉を紡ぎ返す。 「な……なにを、って」 「なかったこと、とか言ってたわね。間桐での生活はそんなに辛かったのかしら」 変わらぬ淡々とした口調に、桜は完全に沸騰した。 「な……姉さんが、遠坂に残った、恵まれた姉さんがそれを言うんですかっ! マキリでの生活を、辛いなんて一言で……!」 怒りのあまり言葉に詰まり、桜は血が垂れるほど強く唇を噛み締める。 次の言葉は動作と同時に紡がれた。すなわち、魔力矢の生成。しかも今度は同時に三本。 「十一年、十一年です姉さん! わたしの目や髪を知ってるでしょう。マキリの魔術師であれと、身体に直接刻まれて、細胞の隅々まで変えられて……! 食事にさえ毒を盛られて、わたしにとってごはんを食べるコトは怖くて痛いコトでしかなかった!」 鏃が震えながらも凛を捉えている。 「蟲倉に押し込められたら、呼吸することさえお爺さまの許しが必要だった! そんなマキリの生活を、遠坂で綺麗に育ってきた姉さんが辛いの一言で片付けるんですかっ!!」 血を吐かんばかりの桜の叫び。 それを、 「そう――それで、それがどうかしたの?」 完全な疑問で、彼女の姉は受け止めた。 「な――」 「だから、なにもかもなかったことにするの? アンタ一人のわがままで」 「わがまま……?」 「そうでしょ? そんなに辛かったなら今までなんで黙ってたの? 一人で我慢してれば、誰かが助けに来てくれるとでも?」 一欠片の同情も無い声で、凛は続ける。 「馬鹿ね桜。世界は――そんなに甘くないのよ」 十一年も辛い日々を過ごすことになったのは、お前が弱いからだと、その言葉は告げていた。 「姉さん――貴女に、貴女になにがわかるっていうんですかっ!?」 絶叫。 怒りで照準がぶれたのは幸いだったか。番えられた矢はばらばらの方向に飛び、城の惨状を更なる崩壊で彩る。 「そう言われてもね。そういう性格なのよ、わたし。あんまり他人の痛みが分からないの。だから正直に言えば、桜がどんなに辛い思いをして、どんなに酷い日々を送ってきたかは解らない。悪いけど、理解しようとも思わないわ」 凛の口調は変わらない。 淡々としているにも関わらず、瓦礫の崩れる中その声は桜の耳にしっかりと届いた。 そこに、嘘偽りは無い。 「ま、これ以上の問答は無用よね。お互い意見を変えるつもりは無いわけだし。馬鹿な妹が仕出かした馬鹿は、きっちり始末つけないと」 言いながら、凛は今まで握り拳を作っていた左手を前に突き出す。 ゆっくりと開かれた掌に握られていたのは、 「……ルビー?」 赤く丸い宝石。 宝石魔術を使う凛の切り札としては納得だが、桜は直前までの怒りも忘れくすくすと嗤う。 「まさか……そんな宝石一つでわたしが止められるとでも思ってるんですか、姉さん。お笑いですね。サーヴァントならともかく、姉さんの身体能力で今のわたしに魔術なんて当てられるわけないでしょう」 やはり凛は劣勢のあまりやぶれかぶれになっているのだ、と判断し、桜の笑いは大きくなる。 その嘲笑を聞き流し、凛は再び宝石を握り締め、高らかに言葉を紡ぐ。 「――レイジングハート。馬鹿な妹を止める為に、力を貸しなさい!!」 《All right.Grand master》 「!?」 響く鋼の声。 凛の掌で、赤い宝石が鼓動を刻む。 それがなんであるか気づいたライダーが妨害しようとするが、僅かに遅い。 「我使命を受けし者なり。契約のもとその力を解き放て。風は空に、星は天に」 赤い光が凛を中心に渦巻く。光は徐々に明確な形を作り、環状魔法陣となって凛を取り囲んだ。 「そして不屈の心は……この胸に!」 掌で浮かぶレイジングハートが一際強く煌いた。 次の言葉を口にするのはやや躊躇いがあるが、 「この手に魔法を! レイジングハート、セットアップ!」 《Stand by ready.Set up》 レイジングハートが一際強く煌き、空間から出現するパーツによってその姿を変えていく。 インテリジェントデバイスは、持ち主の資質とイメージに合わせてその形状を形作る。アーチャーが手にしていた時は彼女が「魔法使いの杖」をイメージしたがゆえに、魔導師の杖としての形を取った。 そして今、凛の手の中でレイジングハートが形作るのは、短剣。中華風の、僅かに湾曲した白い刀身を持つ剣だ。特に強い理由があったわけではないが、中国拳法を修めていることがあるいは原因なのか。 同時に凛の赤黒の私服がはじけ、新たな衣服がその身を覆う。 身を守る強い衣服、というイメージによって生成される防護服もまた、アーチャーが纏っていた制服に似た白いそれとは異なる。 とは言え、アーチャーが目の前で何度も装着しているイメージが強く残った為、身体を覆う防護服は形状こそ違えど色は純白だ。袖周りや、スカートの縁に装飾が加わり、形状的には先程まで着ていた私服と大差ないが、与える印象はアーチャーが纏う防護服に近い。 スカートと上着を形成した赤い光はそのまま凛の周囲を回り、より一層輝くと真紅の外套と化し、凛の身体を覆う。 「な……そ、そんな、姉さん、それは……」 「馬鹿ね桜。わたしが勝機も無しに来るわけないでしょ。ご覧の通り、アーチャーの宝具よ。資質によるけど、持ち主に魔術を行使する力を与える魔術礼装ってとこかしら」 言って、手にした白刃の短剣を軽く振るう。 「サーヴァントの宝具を使うなんて……なんてデタラメ」 完全に無力だと思っていた姉が手にする思わぬ力を前に、桜は圧されていた。だが、それを許すライダーではない。 「落ち着いてください、サクラ様。所詮相手は一人。こちらの術を紡ぐペースに適うはずが無い」 ライダー自身の意思は消えるわけではない。桜への負担は増すが、たった一戦闘だけならばライダーが自身の術式を編むことも十分可能だ。その己がサーヴァントの声に、桜は再び力を取り戻した瞳で凛を睨む。 静かな城の中、その囁きは凛の耳にも届いてた。 ライダーの助言はもっともだ。キャスターから聞いた話によれば、ライダーの術式の中には怪物じみたものを召喚するものもあると言う。如何にレイジングハートが知性ある魔杖とは言え、凛自身が行使出来る攻性魔術は魔弾を雨霰と降らせるようなものではない為、ライダーの言葉は正しい――未だ握り締めたままの右手に持つ、託された物が無ければ。 「悪いけどね、桜。今アンタについてるのはライダー一人だけど、わたしは違うの」 言いながら開く右の掌には金の台座に乗った、小さな黄色の宝石。 「行くわよ、バルディッシュ!」 《Aye ma'am》 先程の女性の声とは明らかに別の、硬質な男性の声。それをトリガーにしたかのように、空間に紫電が迸った。浮かび上がった黄色の宝石は、レイジングハート同様に球形を取り、空間からパーツを生んで武器としての形を作っていく。元々斧槍として設計されたバルディッシュだが、過剰な可変構造は一時的な主の意を受けて普段と違う形状を取ることを可能とする。 レイジングハートと対を成すかのような、黒刃を持つ短剣。 さらに紫電は凛の身体に絡みつき、外套状のバリアジャケットの下に装着された純白の衣装を闇色に染めていった。漆黒を基本とし、白の意匠がそこかしこにあしらわれた装甲服は色の印象もあり、凛の私服をセイバーのバリアジャケット風にアレンジした、といった風情になる。 「な、そんな、宝具の二重発動――!?」 「これで、三対二。むしろ数の上ではこちらが有利ね」 羽織った赤い外套を靡かせ、凛は一歩踏み出した。 桜は呆気に取られているが、正気に戻るのを待つつもりはない。 「さあ、その性悪サーヴァントを引っぺがしてとっくりお仕置きしてあげるわ――桜!」 |