「な、なんだってんだよっ……いったい!」
 背後で爆裂音。一秒でも止まれば蜂の巣にされるという危機感が士郎に足を動かさせていた。
 振り向いている余裕などないが、ほぼ等間隔に響く爆裂音は、背後――と言うより上空だが――にあの少女がいることをしめしている。
 今日もいつもと変わらない一日だった。
 桜が朝食を作りに来てくれて、大河が朝食をたかりに来る。夢見が悪かったのと、左手に覚えの無い怪我がしていたのは確かに普段と異なるが、そんなのは日常のぶれに数えていいはずだ。
 登校してからだっていつもと変わらない。まあ学校に奇妙な違和感を覚えたのが違うと言えば違う点だが、それもまた特に言及することでもない、自分の気のせいだと思っていた。
 普段通り授業を受け、親友である生徒会長柳洞一成の頼みを受けて備品の整理をして回るのもいつものこと。さて帰ろうか、と言うときにこれまた親友である間桐慎二に頼まれごとをしたのは、ああ確かに普段とは違うことだろう。けれど、それだって日常の範疇に収まることで、けしておかしなことなんかじゃない。
 些細な差は、いくつかあった。だがいずれも日常の小さなハプニングで、劇的に何かを変えるほどのことではない。
 日常ががらりと非日常に塗り替えられたのは、つい五分ばかり前だった。
 慎二に頼まれた弓道場での仕事を終えて、星が瞬きはじめた空の下に踏み出した士郎はふと違和感を覚えた。常人であればあるいは気づかなかったかもしれない小さな違和感だったが、毎夜魔術の鍛錬を積み重ねていた士郎の集中力は普段でも常人のそれよりは高い。
 気になって校庭を覗き、そして見てしまった。
 宙に浮かぶ二人の少女。
 それだけでも最早十分なほどありえないのに、三流とは言え魔術を知る士郎は直感してしまった。少女達が人間の規格を大きく外れた何かだということに。
 空を紅く染めんばかりに浮かぶ魔弾を放つ少女と、それを防ぎ続ける少女。恐ろしいながらも目を奪う戦い。その煌きが一旦終息し、再び片方の少女を中心に魔力が渦巻くのを見て士郎は絶句した。
 翼を持った少女に集まる魔力は既に理解を超えている。周囲から魔力を集めるという行為を水を飲むことに例えれば、それは鯨が餌を得る時に同時に飲み込む水を人の身で飲む様を見るようなものだ。異様……否、醜怪の域である。
 そんな魔力を集めた大魔術が発動すればどうなるか。想像に難くない。
 もう片方の少女は確実に、死ぬ。
 その事実に士郎が息を飲む音を聞きつけたのか、
「――誰?」
 翼の少女が振り向いた。
「……っ!」
 紅い瞳が士郎の姿を認める。瞬間、士郎は走り出していた。
 そして、今に至る。
 先程からずっと付かず離れずの間隔で、背後から爆音が聞こえる。おそらくは翼の少女の魔弾の着弾音なのだろうが、振り向く余裕などない士郎に確認する術はない。
「……なかなかやるわね」
 翼の少女――勿論それはアーチャーと交戦していたランサーに他ならない。幻想郷では当たり前にほとんど誰でも弾幕ごっこをしていたものだが、ここでは魔術を使える人間の方が稀らしく、極力目撃されるなとバゼットから念を押されていた。確かにランサーも無闇に騒がれるのは好きではない。適当に脅して、自分のことを公言するなと口止めしようと思っていたのだが、予想外に士郎が粘り続けるのを見て感心しているところだった。
「それに、覚悟も出来てる」
 上空から見ているランサーには、先程から士郎が何度か人通りのありそうな道に出ることが出来たのもわかっている。だが、士郎はひたすらに人目につかないような道を選び続けていた。ここまで続くと偶然とは思いがたい、おそらく人を巻き込まないようにしているのだろう。
 知らずのうちにランサーの口元には笑みが浮かんでいた。
「ま……どれだけ覚悟が出来ていようと力が無けりゃ無意味だけど」
 とは言え、本気など欠片も出していないが、それでも当てる気がゼロではない。それを避け続けているのだから、素質はあると言ったところか。
 いつまでも遊んでいるわけにもいかない。そろそろ脅しつけてアーチャーと続きを始めるか、とランサーが少し狙いを正確にしようと思った途端、士郎の姿が一軒の見慣れない屋敷の中へ消えていった。
「……隠れたってわけじゃなさそうね。拠点かしら、面白い」
 何かアイテムでも持ち出してくるだろうかと期待しながら、ランサーはひとまず地上に降り、堂々と門から侵入する。
 その存在を感じ取り、屋敷――衛宮邸に仕掛けられた結界が高らかに警鐘を鳴らした。
「……くそ、やっぱり諦めてくれないか」
 居間まで辿り着いた士郎は荒い息を吐きながら周囲を見回す。本来魔術師の工房であれば侵入者を撃退する為のトラップ等があるのが普通だが、三流以下の士郎ではそのようなトラップを用意できるはずが無い。養父が残した警報が残っていることすら僥倖と言えるだろう。故に何か武器を自前で用意しなければならない。
「……武器と言っても、あんなの相手にどうすりゃいいんだよ……」
 空から魔弾の連射は爆撃と同意だ。士郎が得意とする弓が手元にあればまだ反撃の余地はあるが、
「くそ、土蔵に置きっぱなしだからな……せめてある程度長いもの」
 空中にいる相手には気休めにしかならないだろうが、それでもある程度の長さ……せめて木刀程度の長さは欲しい。包丁やナイフでは気休めにもならない。もっとも何を持っていようとお守り程度の意味にしかならないだろうが。
「うわ……藤ねえが置いてったポスターしかねえ……」
 切羽詰った状況に反して、あまりにも気の抜ける道具しかない。
 それが逆に功を奏したか。
「……こうなったら破れかぶれだ」
 この際覚悟を決めて、それで乗り切ることに決めた。
「――同調トレース開始オン
 手にしたポスターを丸め、自己を変革する言葉を紡ぐ。
 材質を解明し、イメージ上の隙間に己の魔力を流す。
 それが溢れる寸前に、
「――全工程トレース終了オフ
 ポスターとの接続を断った。
「……や、った」
 漏れる声は自分でも驚くほど呆然としていた。
 それも当然、こんな強化の魔術ですら成功したのは何年かぶりだ。
「……どこから、来る……?」
 最初の戦いぶりを考えれば屋敷ごと消し飛ばされかねないが、不思議とその危険は感じなかった。何故かこちらの反撃を許す位置から仕掛けてくる、そんな直感がある。
 ポスターの剣を構えたまま、士郎はじりじりと庭に面した廊下へと移動する。再度空に浮かばれたら、こんな即席の武器ではどうにもならない。土蔵に行けば、置き去りと言っても手入れだけは欠かしたことの無い弓があるのだ。互角なんて言葉にはほど遠いが、少なくとも弓さえあれば手は出せる。
「……!?」
 突然、背筋が総毛だった。
 訳もわからないまま士郎は廊下へ飛び出す。
 その空間を、真紅の光が通り過ぎた。士郎の視界の端で光は窓を叩き割り、さらに庭の中ほどまで飛んでから消滅する。
「あら……よく避けたわね。今のはちょっと当てるつもりだったのに」
 ずたずたになったふすまから、僅かな驚きを浮かべた少女の顔が覗く。
 銀髪に紅い瞳。纏うのはまるで舞踏会にでも着ていくかのような装飾過剰なドレス。可愛らしいというよりは美しい顔立ちは、幼女趣味でなくとも見る者を魅了するだろう。
 事実、士郎も一瞬見惚れてしまったが、彼女が恐るべき魔弾の使い手という認識が即座に戻ってくる。即席の紙剣を構えなおした。
 なんとか隙を見つけて土蔵まで走れれば、と思うが隙を見つけるどころの話ではない。無造作に立っているだけだと言うのに、気を抜けば眩暈を引き起こしそうなほど強烈なプレッシャーが発せられている。
「なかなかね。嫌いじゃないよ」
 ランサーにも予感があった。
 本来ならば、ランサーは弱い者をいたぶるような真似はしない。そんなことになんの意味も見出せないからだ。反撃しない者を相手にしてもなんの面白味も感じない。そういった意味では士郎はかろうじて合格ラインに引っかかっている、という程度か。
 だがランサーはひしひしと感じていた。これは化ける。今は蟻が象に向かってくるようなものだが、蟻から犬程度には昇格する予感が。
 それゆえに、らしくもないいたぶるような真似をしているのだ。
 ランサーの周囲に再び魔弾が生まれる、ナイフのように鈍く光るそれは、切っ先を悉く士郎へ向けていた。アーチャーに向けていた時よりも、ずっと薄い弾幕だが、果たして避け切れるかは微妙なところだろう。
 声も無く、魔弾が一斉に動いた。
 畳や天井を削り、卓袱台を穿ち士郎へと殺到する。
「くっ――こ、の……!」
 アーチャーに差し向けたときと異なり、速度も大幅に落とされたとは言え、それを避けるのは生易しいことではない。
 極度の集中力を維持できる士郎だからこそ、なんとか弾幕の薄い場所へ潜り込み、直撃しそうな魔弾をポスターで切り払うことが出来たが、これが何度も続けば士郎と言えども集中力は途切れるし、ポスターももたない。
「へえ……粘るわね」
 そんな呟きが聞こえた次の瞬間、
「が――っ!?」
 士郎の身体は軽々と吹き飛んでいた。吹き飛んでいきながらの視界に映るのは、先程まで自分が立っていた場所にいるランサーの姿。
(嘘……だろ!?)
 あれだけの魔弾を撃ちながら、視認すら許さない速度で近接攻撃を仕掛けてきたということか。しかもあの体格で自分を吹き飛ばしただなんて、最早士郎の理解の限界を超えている。
 ガラスを叩き割って、士郎の身体が庭で跳ねる。
 落下の衝撃でガラスが突き刺さったのか、鋭い痛みが背中全体にはしっていた。
「く……」
 よろよろと立ち上がると、ランサーがとことこと縁側に歩み寄るのが視界に入る。
「お前……一体なんなんだ……」
 なんであろうと士郎の窮地は変わらないのだが、僅かに距離が離れ、かつ魔弾も無い為会話の余地が生まれている。ゆえに士郎はそんな言葉を口にした。
 それにランサーは肩を竦め、
「さてね。ランサーとは呼ばれているけれど、それがお前に何か回答を与えてくれるのかしら?」
「ラン、サー……?」
 士郎は魔術師の端くれではあるが、協会には所属していない。無論聖杯戦争のことなど少しも知らない為、ランサーの名乗りはむしろ困惑を深めるだけだ。何故こんな少女が槍兵ランサーを名乗るのか。
「ま、あんまり意味の無い名前だけどね。そんなことよりも、ぼうっとしててもいいことないよ。早くなんとかしなきゃ……」
 ランサーの目前に、巨大な魔弾が出現した。中空になったそれは、猛獣が挑戦させられる火の輪くぐりに似ている。
「死ぬよ?」
 言葉と同時に巨大な魔弾が疾る。
 どれだけの破壊力があるのかわからないが、崩れた体勢ではマトモに避けることは不可能。仮にかろうじて避けたとしても、ランサーは容赦なく次の一撃を見舞ってくるだろう、そうなれば終わりだ。
 ほぼ不可避のそれを、
「こ――のぉぉおおおおお!」
 防いだ。
 ランサーの目の前に突如広がるハリボテっぽい青空。
 やけに暑苦しい顔の青年が軍服姿で親指を突き出している。
 見慣れた質感の文字は、
『恋のラブリーレンジャーランド。
     いいから来てくれ自衛隊』
 夜空に、幼い笑い声が響いた。
 なんだかわからないが、ランサーの笑いのツボを刺激したらしい。
 追撃の魔弾も生成せずに、思わず腹を抱えて爆笑。
 それが、士郎にとって唯一の好機となった。
 広げたポスターは衝撃を余すことなく伝え、先程以上に吹き飛ばされる。だがそれは望むところだ。
 吹き飛ばされた方向には、目指す土蔵がある。
 ランサーの方を振り向きもせず、体当たりのような形で土蔵の扉を押し開ける。
「何か、武器は――!」
 鈍い背中の痛みを堪えながら、土蔵の奥を目指す士郎の足元で、
「っ!」
 何かが炸裂した。たまらず倒れる士郎の視界に映るのは、
「今のはちょっと面白かったわ……ま、それとお前の愚策は無関係だけど。こんな狭いところに入って……なに、死にたいの?」
 両手を胸の前に掲げたランサーの姿。
「生憎と自殺志願者の手伝いをするほど酔狂ではないの。自殺なら私の目に付かないところでやりな」
「っ、ふざけるなっ。さっきから俺を殺そうとしてるのはお前の方だろ!」
「別に殺そう、なんて思っちゃいないよ。何かこう……予感があるの」
「予感……?」
「そう、予感。だから、早くなんとかしてみせなさい」
 士郎にはランサーの言っていることが理解できない。再びランサーの周囲に展開される魔弾を、三流魔術師の士郎はどう足掻いても回避出来ない。
 ここで士郎の生命は終わりだ。
 生の幕引きを理解した瞬間、脳髄が真紅に染まった。
「――けるな」
「?」
 眉を顰めるランサーに、士郎は怒りの視線を叩きつけ、叫ぶ。
「ふざけるなっ! 俺は――」
 何か特別なことが出来るなんて自惚れていない。
 けれど、こんなところで意味も無く殺される。そんなことだけは認められない――!
 その瞬間、
「!?」
 彼女は、魔法のように現れた。
 つまらなそうにため息を吐いたランサーから投射された魔弾が、悉く弾き散らされる。
「……ほら、予感的中。面白くなってきたわ」
 笑い、ランサーが土蔵の外へと舞い出る。だが士郎はそんなランサーのことなど、もう見ていなかった。
 目の前に現れた姿に、瞳を奪われる。
 土蔵の闇を切り裂かんとばかりに煌く、黒いリボンで括られた金砂のような髪。
 その身に纏うは、闇に溶ける暗い外套。
 真っ直ぐに向けられた赤い瞳は、少女のそれでありながら、なんて強い――
「召喚に従い参上した。
 これより我が刃は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。―――ここに、契約は完了した」
 言って、少女は手にした黒杖へ優しい眼差しを向け、
「行くよ、バルディッシュ」
《――Yes sir》
 瞬間、光の軌跡を残し、少女の姿は掻き消えた。
「あ、ちょ、ちょっと……!」
 その動きに止める暇などあるはずがない。だが今の言葉を聞けば、彼女が何をしようとしているのかは火を見るより明らかだ。
 背中の痛みも気にせず、士郎は慌てて土蔵を飛び出した。
 いくら見かけが年端もいかないとは言え、ランサーを名乗った少女は恐るべき魔術師だ。あんな女の子がどうこう出来るはずはない――そんな考えは、土蔵を出た瞬間に粉々に打ち砕かれた。
「……え?」
 黒い影が、紅い影を追っている。それはよくよく目を凝らせば、黒杖から伸びる金の刃を携えた少女が、ランサーを追い回している様子だった。
「さっきのアーチャーと似たタイプ……! ほんと、面白いわ!」
 時折ランサーも魔弾を放つも、大局的には黒い少女が優勢だ。魔弾は悉く避けられている。
 ランサーが大きく手を振りかぶった。その指先には、先程士郎に向けられた極大の魔弾が十を越えて浮かぶ。
「――っ!」
 少女らしからぬ咆哮と共に、ランサーが手を振り下ろせば、魔弾は全て黒い少女へと向かった。とても避けられるはずがない、と思うのは士郎が人のレベルで戦いを見ているからである。
《Arc Saber》
 硬質な男性の声が響くと同時に、黒杖から金の刃が分離し、ランサーから放たれた弾幕の悉くを斬って捨てる。
 自身の弾幕が斬り捨てられたと言うのに、ランサーの顔に浮かぶのは不敵な笑み。
「面白いわ。さて、じゃあより面白いか、やっぱりそうでもないかのテストといきましょうか――!」
 ランサーが笑いながら高みに飛ぶ。
 同時に校庭で目撃した時同様、ランサーを中心に集まる莫大な魔力。
「まずい……逃げろっ!」
 あれは必殺の術式だ。黒い少女が如何に強くとも、アレを防げるとは思えない。
 だが、叫ぶ士郎に黒い少女は穏やかに微笑んでみせると、
「ご心配は無用です。マスターこそ危険です、離れていてください」
 言って、月を背にするランサーを見上げた。
 掲げた黒杖を中心に、ランサー同様に激しい魔力が渦巻く。
 紅い光と、金色の輝きが空間を染め、高まった魔力は大気を鳴動させる。
 一触即発。
 両者が一枚目の切り札を切ろうとする瞬間、それは起こった。
「!?」
 ランサーの周囲を覆っていた紅いそれとは異質の朱が、ランサーを取り囲む。
「バゼット!? なんのつも……」
 叫びも途中に、唐突にランサーの姿が掻き消えた。

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