暗い間桐の家。
 だが、同時にそこは如何に嫌おうと棲み慣れた我が家である。
 陰性にして、水気の家の空気は己が身体に実によく馴染む。
 その事実に少女――間桐桜は無意識の内にため息を吐いていた。
 何処かに立ち寄る必要も無い。桜はとぼとぼと自分の部屋へと足を向ける。
「お帰りなさい……サクラ様」
 ドアを開けた途端、少女の含み笑いを伴った声が桜を出迎えた。
「っ! ライダー!?」
 電気もつけない部屋の中、忌まわしい記憶しか存在しない寝台の上、蟠る闇に溶け込むように、その姿はあった。病的なまでに白い手足と、人形じみた美貌が浮かんでいるようで不気味だが、今更その程度のことに怯える桜ではない。
「な、なんで……」
 だが、ライダーに問いかける声は震えていた。
 桜の心を敏感に感じ取り、ライダーは静かに嗤う。
「だって、シンジは負けたのだもの。本来の・・・契約者のところへ戻るのは当然でしょう?」
「……そう、ですね、兄さんは」
「バーサーカーに敗北したわ。まあ、偽神の書とやらを失って、私が書の形を取ったのを消滅と見たのか、戦いの場から逃げ出したので生きてはいるようだけど……家に帰っていないのは、妙ね」
「多分、教会に行ったんです」
 言って、桜はライダーのいる寝台へと歩み寄る。
 如何に忌まわしい思い出しかないとは言え、少なくとも横たわれば肉体的な疲労は回復するのだ。
 座り、ライダーへ向かって、
「ごめんなさい、ライダー。もう休んでもいいかしら」
 俯いた顔で言う。
 そんな桜の様子を、ライダーは変わらぬ薄笑いを浮かべ見つめ、
「ねえサクラ様、貴女……何故そう縮こまっているの?」
「え?」
 白磁の指が、桜の頬を挟んだ。
 闇色の髪がゆらりと垂れ、桜の細い身体に絡みつく。
「何故? 貴女は力を得た。この私、最古の魔導書ナコト写本が側にいるのだから」
 声は優しく、甘い。
 ――だが、それは、
「サクラ様、望みは、なに?」
 最早言葉そのものが、旋律そのものが、毒である。
 桜は、この我慢強い――否、そのような言葉では足りぬ。彼女の精神は防壁と呼んで差し支えないほどの堅牢さを備えてしまっている――少女は、例えるならば要塞だ。それも、この世で最も堅固な。他者を害する刃を持たぬと言うだけで、桜を犯すことは何人も不可能。そう言っても過言ではないほどだった。事実数百年を生きる魔怪、間桐の支配者である老人ですら桜の洗脳は諦めたのだ。
「ねえ、サクラ様。戦いたくないという貴女の優しさはよくわかるわ。でも」
 しかし、このライダーは桁が……いや、次元が違う。一言一言が圧縮された呪言に等しい、悪意を以って紡がれれば、それだけで並の人間は悶死しかねないだろう。
 魔導書ナコト写本が精霊、エセルドレーダ。それがライダーの真名だ。
 ――ナコト写本。
 人類誕生より遡ること五千年、地球を支配していたウミウシじみた生物が残したと言う、異界の知識を記した魔導書。
 それが積み重ねた年月を考えれば、言葉そのものが呪いじみているのも当然と言える。
 ましてこの精霊は、今やただ一つの目的の為に存在しているのだ。
 そう、唯一人の真なる主の為に。
「貴女の境遇から抜け出すのは戦うとは呼ばないわ。それはね――抗う、と呼ぶのよ」
「あら、がう?」
「そう、取り戻すの。貴女が私を取れば、それが出来る。聖杯を手に出来る。あらゆる願いを叶えるという聖杯を」
 取り戻す。
 その言葉に、桜の心の奥底で眠っていた何かが、ぴくりと蠢いた。
 漆黒の髪と瞳。共に過ごしていた人、もっと当たり前に出会えたかも知れない彼――己が手に入れられたかもしれないモノ。
 それを羨んでいなかったなどと、言えるはずがなかった。
「だからサクラ様。望みなさい、聖杯さえ手にすれば、叶うのだから。戦う必要なんて無い――手にした力で、抗えばいいだけだもの」
 紡がれる言葉は、どこまでも柔らかく、甘く、そして嘲りに満ちていた。
 呆とする桜の頬をライダーの手が優しく撫でる。
 まるで愛し子を抱くように、ライダーはその胸に桜を抱きしめた。
(ええ――この子は、大切な駒だもの。私の願いを叶える為の、ね)
 可憐な唇が、桜の耳にそっと囁きかける。
「さあ、サクラ様――契約を」
「……抗う。取り、戻す」
 熱に浮かされたような瞳のまま桜は、
「――取り戻す」
 艶やかな唇を、ライダーのそれと重ねてしまった。

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